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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    五 藤島の戦いと南朝の反撃
      南朝の落日
写真102 鷹巣城跡遠望

写真102 鷹巣城跡遠望

 「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋ルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」(『太平記』巻二一)と、臨終のさいにいたるまで京都復帰への執念を燃やし続けた後醍醐がこの世を去ったのは、暦応二年八月のことであった。越前で攻勢を続ける南朝方にもその報は伝えられたであろうが、戦いそのものに大きな変化が生じることはなかった。もともと越前の南朝方は、すなわち新田方であって、義貞・義助を軸に自身の戦略によって戦いを遂行できるだけの組織と機動性を有していたから、越前における新田対足利という戦いの構図に変化はなかったのである。しかし後醍醐の死から二年余、前項でもふれたように、越前の南朝方はついに解体の時を迎えた。
 『太平記』の語る越前最後の戦いは、畑時能らの篭もる鷹巣城攻防戦である。得江頼員の軍忠状によると、畑時能はすでに暦応三年十月の畑城陥落とともに降参したことになっている(表16)。しかし再起に成功したのであろうか、『太平記』巻二二は、「越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国ノ間ニ、宮方ノ城一所モ無カリケル」という状況のなかで、時能が篭もる鷹巣城には一井氏政も加わり、何重にも城を囲んだ斯波高経・高師重率いる大軍を相手に必死の抵抗を試みた様子を語っている。鷹巣城攻撃に加わった得江頼員は翌四年七月二十四日、城東麓の合戦で右膝に矢疵を受けている(資2 尊経閣文庫所蔵文書二二号)。時能と頼員は何度目かの、そして最後の対戦をここで遂げたことになる。十月末、篭城の限界を察した時能は、わずかな手勢を二分して一方を一井氏政につけて残し、自らは他方を率いて伊知地山(勝山市鷲ケ岳)に拠点を構築し、奇策を用いて大軍を一蹴したものの、自身も傷ついて悶死したという。
 これまで南朝方の中心にあった脇屋義助は、このころ越前から美濃へ没落の途にあった。新田対足利という戦いの構図が崩れて、南朝方の組織的戦闘能力は極度に衰退し、時能らは孤立した戦いを強いられたのである。伊知地山の陥落に前後して鷹巣城も孤立したまま落城する。ここに越前国内の南朝方は一掃され、越前守護斯波高経を中核とする新秩序が次第に形成されていく。



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