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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    五 藤島の戦いと南朝の反撃
      得江頼員の戦い
 暦応二年に入っても越前の南朝方の動きは衰えていない。五月三日、幕府は金ケ崎城の南朝方を攻撃させるために石橋和義を派遣し、近江国の京極高秀・朽木頼氏ならびに浅井・伊香・坂田三郡の地頭・御家人を発向させた(資2 内閣 朽木家古文書五号)。金ケ崎城も依然南朝方の抵抗拠点だったのである。
 ところで、この年三月に幕府の指令を受けて越前入りした武士に能登国の国人得江頼員がいた。得江氏は能登国志雄保(石川県志雄町)などを勢力基盤として成長した一族で、頼員は能登国守護吉見頼隆に従って越前の南朝方攻撃に参加し、暦応四年七月まで越前各地に転戦した。その頼員が戦功を書き記し、これに戦闘指揮官である守護等に確認の花押(証判)を受けて、きたるべき論功行賞の場に提出するために備えた軍忠状が八通残されている(資2 尊経閣文庫所蔵文書一三・一四・一六〜一九・二一・二二号)。これらの軍忠状をみると、『太平記』巻二一の「此両三年越前ノ城三十余箇所相交テ合戦ノ止日ナシ」という語りも現実味を帯びてくる。表16(表16 得江頼員越前入国後の戦況)に示したのは、この得江頼員軍忠状や『太平記』などから推定した暦応二年から同四年の戦況である。脇屋義助らによる黒丸城の奪取をピークとする新田方(南朝軍)の優勢と暦応三年以降の足利方(北朝軍)の反攻が看て取れる。同三年八月には黒丸城が陥落し、翌九月新田方は府中から没落する。そして、翌四年六月、新田義貞の再挙以来南朝方の拠点となっていた杣山城が陥落すると、なお戦闘が続いているのは畑時能の篭もる鷹巣(高栖)城のみとなった。
図20 得江頼員の転戦地

図20 得江頼員の転戦地
 注1 4. 4. 4は暦応4年4月4日を示す。
 注2 暦応年間以後に確認される弘祥寺・白土城・一乗城・石丸城も便宜的に加えた。



[準備中]

写真101 得江頼員軍忠状(尊経閣文庫所蔵文書)

 頼員はほとんどすべての時を戦場で過ごし(図20)、ついに傷ついた。しかし、その二年後の康永三年(一三四四)には能登の戦場に姿を現わし、その後は越中へと転戦する(『得江文書』)。頼員に限らず、南北朝の戦いで長期にわたりその所領を離れて戦いを強いられた武士は多い。恒良の篭もる金ケ崎城攻撃に参戦した市河親宗は、信濃を出て越後から北陸道を西上した。南朝方に奪還された金ケ崎城を攻めた茂木知政は、下野・常陸の南朝方との戦いから美濃国青野原の戦いを経て敦賀にいたっている(『茂木文書』)。足利尊氏の離反以来足利方について戦った斎藤岡本氏は、建武三年、利親が坂井郡一品田(丸岡町一本田)の合戦で討死し、子息の龍松丸がその本領大野郡羽生・新庄・下庄地頭職の安堵を受けたが、暦応三年にいたってなおその知行に苦慮していた(資2 松雲公一・二号)。彼ら武士は、平時にあっては農業経営など、在地における生産活動から分離していなかったから、彼らが所領を離れて不在を常とすれば、田畠を荒廃させあるいはこれを他者に奪われる危険性は増大する。合戦に功をあげて所領を獲得する機会と、既得権を失う危険性と、その両者の間で彼らは戦っていたのである。そして合戦が、戦場と行軍の通路ばかりでなく、より広範な地域における生産地破壊の可能性を高めたことはいうまでもない。



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