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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    四 金ケ崎城の攻防
      金ケ崎城と敦賀津
写真98 金ケ崎城跡遠望

写真98 金ケ崎城跡遠望

 敦賀津は古代以来日本海に開けた要津である。京都の需要をまかなう物資の多くが、北国からこの敦賀を経て運ばれていた。そして、日本海海運がもたらす富は中継地である敦賀津にも蓄積され、敦賀津に寄港する船の積荷の積載量に応じて賦課される「敦賀津升米」は、鎌倉末期以降、修造料などとして大和西大寺・京都八坂社に寄付されていた(『八坂神社記録』、資2西大寺文書二〜一三号)。後醍醐が恒良に義貞をつけて敦賀に下したのは、ここを押さえれば尊氏がいかに京都を占領したとしても、経済的に圧迫を加えて戦況を有利に導くことができると考えたからに違いない。しかも敦賀は、一方を海に開き三方を山岳で囲まれた軍事戦略的利点も合わせもっていた。向かい合う海の色は違っても、武士の都鎌倉を彷彿とさせる風景がここには展開していたのである。
 再び『太平記』巻一七に従えば、敦賀で義貞軍を迎えたのは気比社の気比氏治であった。そして、氏治は恒良・尊良の両皇子と新田義貞・義顕らを金ケ崎城に入れ、その他の軍勢は津の在家を点じて、つまり敦賀津の民屋を収用してこれに分宿させたという。津には港湾施設のほか問丸なども存在し繁盛していたと思われるが、やがて海も陸も敦賀に続くすべての道に、金ケ崎城を攻撃する幕府方の軍勢が充満することになった。
 義貞が拠った金ケ崎城は、敦賀の東端に位置し敦賀津を眼下にみおろす好所を占めている。ここは富の集まる敦賀津を管理する領主の居所としても絶好の場所であるが、海に突き出た断崖上に縄張りをめぐらし、後背となる山岳は高く険しい。『梅松論』が金ケ崎城を「無双の要害」と評したのも決して誇張ではない難攻不落の城郭であった。二人の皇子と義貞軍は、幕府方の断続的な攻撃に耐えながら、建武三年の冬をここで越すことになるのである。



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