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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    四 金ケ崎城の攻防
      義貞の戦略と幕府の対応
 『太平記』は、金ケ崎城に入った義貞軍が、金ケ崎城を西の基点として越後へいたる地域に義顕・義助らを派遣して拠点を構築する計画を実行しようとしたところ、南条郡杣山城の瓜生保が幕府方についてこれを阻止したため果たせなかったと語っている。新田一族は上野国新田荘(群馬県太田市・新田町および埼玉県深谷市など)を中心に上野国内および越後国内に所領を得て成長した武士団であり、またこのときに義貞は越後守であったから、越後へのびる兵站線を確保できるかどうかがこの戦いのゆくえを決めると義貞が判断していた可能性は高く、『太平記』巻一七の語る義貞の計画はおそらく実在したであろう。しかし、幕府方は義貞の作戦を読んでいた。すでに義貞の北国落ち以前から越後の新田勢へ攻撃をかけ(『色部文書』)、義貞軍が吹雪の山道をさまよっていた十月十二日には、信濃国の守護・地頭・御家人に対して越後の新田勢を攻撃するよう命じていた。信濃国の国人市河親宗は、十一月三日、「信州惣将軍」村上信貞に属して越後の「守護目代」を追い落としたと書き記している(『市河文書』)。義貞が構想した兵站線は早くも撹乱されていたのである。瓜生保を含む越前の国人たちも、斯波高経をはじめとする幕府方が次第に勢力を増していくなかで、ある者は幕府方、ある者は新田方と、それぞれの選択をしていたことは容易に想像できる。『太平記』巻一七の語る瓜生の変心や今庄浄慶・由良光氏の忠節は、越前の国人たちのそうした動向を示すものとして読みとることができる。

表15 建武3年足利方再征の軍事編制

表15 建武3年足利方再征の軍事編制
 『太平記』巻一七は続いて、義顕・義助らが金ケ崎城を囲んだ大軍を奇計をめぐらして破り、金ケ崎城の危機を救ったので義貞軍の気勢はあがり、「金ケ崎船遊」で知られる管絃祭を催したが、敗退の報に接した尊氏はおおいに怒り大軍を発向させたと語り、その軍事編制を載せている(表15)。これがそのまま信用できるわけではないが、遠征は幕府方も雪辱を期したものであったはずで、一応の参考となろう。一方、結城親朝に充てて下された延元元年(一三三六)十一月十二日付の恒良の令旨と後醍醐(これも恒良か)の綸旨が『結城文書』に伝来している(資2 結城文書一・二号)。文書の真偽に問題はあるが、新田方も援軍を募っていたことは確かであろう。決戦の日は近づいていたのである。



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