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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    四 金ケ崎城の攻防
      新田義貞の都落ち
 後醍醐の講和受入れにいちばん驚いたのは新田義貞であったろう。講和となれば義貞は戦うべき目的を失うばかりか、戦いを続ければ逆徒の汚名を着ることになるからである。同じ新田一族で義貞の軍に参じていた堀口貞満が、涙ながらに後醍醐に抗議して義貞の思いを代弁したため、後醍醐はこれに感じて皇太子恒良親王に皇位を譲り、新帝恒良を義貞に託して越前に下らせ反攻の時を待つことになったと『太平記』巻一七は記している。一説にいう北陸朝廷構想である。しかし、講和交渉によって生じた空白の時間を利用して地方に下向したのは恒良・義貞ばかりではなかった。皇子尊澄法親王は北畠親房とともに伊勢に、皇子懐良親王は吉野に、後醍醐近臣の四条隆資・中院定平は紀伊・河内に下っている。皇子義良親王は北畠顕家とともに奥州に健在だったから、後醍醐は講和交渉とともに次の反攻計画を実施に移していたことになる。
写真97 新田義貞木像

写真97 新田義貞木像

 さて、新田義貞が恒良をともなって比叡山をあとにしたのは十月上旬のことであった。恒良の異腹の兄尊良、洞院公資の子実世らの公家、義貞の弟脇屋義助、義貞の子義顕、新田一族の堀口貞満・一井義時らのほか、千葉貞胤・河野通治らの武士がこれに従った。めざすは越前敦賀である。ところが、幕府方の対応も早く、斯波高経の多くの軍勢が近江・越前国境を固めていて、塩津・海津あたりに到着した義貞軍は予定の進路をとれなくなった。高経は、建武元年九月ころにはすでに越前守護となっており(資2 武田健三氏所蔵文書一号)、尊氏も同三年三月二十日、本多右馬允に越前国内の後醍醐方討伐を命ずるなど(弘文荘所蔵文書二号『福井県史研究』一〇)、早くから義貞の北国落ちを警戒していた。したがって、このときも即座に義貞の越前入りを阻むべく国境の要害に軍勢を展開させることができたのである。一方、若狭もこのときまでには足利方の制圧下にあった。七月二十五日若狭守護となった斯波時家は、近江湖西の佐々木一族である朽木義信らの来援を得て若狭制圧に着手し、八月二十八日には三方郡山東・山西郷や遠敷郡松永を焼き払い小浜に入ろうとした新田方の左門少将・国司代若狭又太郎・守護代式部六郎らと三方郡能登野などで合戦した。松永荘地頭多伊良隆能の軍勢に加わっていた明通寺僧但馬房快禅らも討死する激戦となったが、九月五日には小浜から新田方の軍勢を駆逐し、さらに同月十四日の遠敷郡谷田部西尾の合戦で再度新田方を破り、若狭の勢力地図は足利方に塗り替えられていたのである(「守護職次第」、資2 内閣 朽木家古文書一〜三号、資9 明通寺文書二六号)。
 敦賀への通路を断たれた義貞軍は、険しい山越えの間道に進路を変えた。『太平記』巻一七によれば、例年になく寒冷な年にあたり、この日も風まじりに雪の降る、山越えには厳しい天候にさいなまれて凍死する者が続出し、従軍してきた河野らは本隊とはぐれたところを佐々木・熊谷(河口荘の「悪党」)に襲撃され討死する。千葉貞胤も斯波高経に降参し、義貞軍の疲弊はおおうべくもなかったが、木ノ芽峠を越えた義貞軍は、十月十三日、敦賀津に到着したという。



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