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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    四 金ケ崎城の攻防
      尊氏の離反と南北朝の分裂
 建武二年(一三三五)七月、鎌倉幕府最後の得宗である北条高時の遺児時行が信濃で反乱をおこした。世にいう中先代の乱である。高時一党が新田義貞率いる大軍に鎌倉を蹂躙されて滅んでのち二年余、得宗被官でもあった信濃諏訪社の祝(神官)諏訪氏にかくまわれていた時行が北条の残党を結集して挙兵したこの反乱は、後醍醐新政への不満分子をも吸収しながらまたたく間に膨張し、信濃から武蔵を駆け抜けて鎌倉にいたり、後醍醐の皇子成良親王を奉じて鎌倉にあった足利直義は西走する。足利方の完全な敗北であった。
 直義は三河国までいっきに逃げ、戦況を京都に報告するとともに成良を帰京させた。京都で敗北の知らせを受けた尊氏は、さっそく後醍醐に征夷大将軍・総追捕使の拝命と東下の許可を願い出たがともに許されず、結局尊氏は東下を強行し、直義とともに東海道を攻め下り、八月十九日についに鎌倉を奪還する。後醍醐はここにいたって尊氏の勲功を賞するとともに上洛を促したが、尊氏は鎌倉に居すわって動く気配をみせなかった。後醍醐新政からの離脱を態度で表明したのである。十一月、直義の名で新田義貞討伐の兵が諸国に募られ、後醍醐も義貞を尊氏討伐のため東下させる。ここに後醍醐と尊氏の長い戦いが始まったのである。
写真96 騎馬武者像

写真96 騎馬武者像

 十二月十一日、箱根竹ノ下に義貞軍を敗退させた尊氏は、西走する義貞軍を追って京都をめざし、明けて建武三年正月十一日、一度は京都を制圧する。すでに前年の十二月二十七日、尊氏は本郷貞泰に若狭国の地頭・御家人を動員して海道落ちする義貞軍を迎撃せよと命じていたが、入京後、義貞の北国落ちを警戒した尊氏は、正月十八日、今度は本郷家泰に命じて「近江国萱津」宿以下の要害を固めさせた(資2 本郷文書一一・一二号)。しかし、尊氏を追って西上してきた北畠顕家が合流した後醍醐方に京都を追われ、尊氏はいったん九州まで敗走する。ところが、尊氏は敗走しながらも北条氏与党所領として没収された土地の返還を宣言して援軍を募った。そして九州で再起した直後の三月二十三日には、光明天皇をたて、新田義貞追討の光厳上皇の院宣を施行するとして諸国の兵を糾合した。これに応じて尊氏につく武士は日増しに増加し、五月二十五日、楠木正成が摂津国湊川(神戸市)で敗死すると、後醍醐は尊氏軍が丹波路から襲来するとの情報を得て神護寺衆徒に赤坂越えを警固させ、若狭からの襲来も予想してこれには鞍馬寺衆徒をあてなければならなかった。そして、後醍醐自身は比叡山に篭もって徹底抗戦の体制をとり、入京した尊氏と五か月あまり戦い続けた。太良荘の地頭職をねらっていた若狭二郎も後醍醐方に参じ、この戦いのなかで討死した。秋に入り講和交渉が開始され、十一月に後醍醐は下山し、すでに尊氏により擁立されていた光明天皇に神器が渡された。尊氏はこれを受けて「建武式目」を制定して幕府創立を宣言し、十二月に後醍醐は吉野に走り、ここに南北両朝が分立することになったのである。



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