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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    三 悪党と新政府下の混乱
      後醍醐新政からの離脱
 このように、「自由狼藉ノ世界」は越前・若狭においても現実のものとなっていた。後醍醐の意思はもう届かなかった。荘園領主である東寺や大乗院は新政への期待感をほとんど喪失し、自力救済の途を求めつつあったし、地方支配の要となるべき国衙・守護・上御使はすでに公権を利用して私的利潤の追求に走り出していた。そして、混乱のなかで最も被害を受けることになる百姓らも、上位権力による秩序形成を待つのではなく、自ら一揆を形成し生活防衛のための闘いを始めていた。それぞれが、中央集権的な国家形成をめざした新政から離脱して、それぞれの既得権の維持とさらなる勢力拡大を求める運動へと身を投じていったのである。しかし、なんらの利害調整機関をもたぬまま運動が進展していけば、平和的秩序形成への展望を欠いたまま混乱だけが深刻化することになる。統治能力を失った後醍醐新政府に代わる政治権力登場への期待は次第に高まりつつあった。
 建武二年四月十五日、太良荘に対する直阿らの乱妨を停止すべき旨の雑訴決断所牒が下された。これを受けた守護布志名雅清は、五月九日に施行状を守護代に下し、国司伊賀兼光は、五月十七日に山口三位房有円の奉ずる国宣を目代に下している(ゐ函一八)。しかし解決への途も探れずにいた九月五日、今度は守護布志名雅清が別件で訴えられる立場となった。雅清は遠敷郡名田荘地頭でもあったが、代官浅井道藝が「別相伝」(伝領形態が他と異なること)の地である隼人佐成重領の同荘内須恵野村に「山賊」と記されるような押妨行為を行なっているというのである。雅清は同荘内田村・下村に対する押妨の件でも訴えられているから、おそらく名田荘全域を支配下に置くべく計略を廻らしていたのであろう。須恵野村の一件は、十二月二十五日、雅清が道藝の押妨を止める旨の避状を成重に与えて落着したが、その避状の有効性を含め、すべては守護であり、地頭であり、「悪党」でもある雅清の動向にかかっていたのである。
 太良荘の「悪党」も河口荘の「悪党」も、そして雅清も、この時代に越前・若狭で「悪党」と呼ばれた人びとの多くは新政の地方支配機構のなかに地位を得ていた者たちであった。政治の貧困が支配機構を弛緩させ、地方支配機構の末端を担っていた人びとが新政から離脱を始めたのである。



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