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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    三 悪党と新政府下の混乱
      河口荘の「悪党」
 太良荘が国衙・守護所の実力行使と直阿らの再入部に騒然としているころ、越前の河口荘でも国衙・守護所の「悪党」問題が発生していた(「大乗院文書」)。
 ことは建武元年の末、春日三十講料所坪江上郷名主らが「供料以下布施物」を抑留したことに始まる。興福寺大乗院雑掌の訴えを受けて、十二月二十日、国衙・守護充ての雑訴決断所牒が下されたが、事態はいっこうに解決に向かわなかった。ところが、年明けて同二年正月、上御使熊谷・国司代片上弥次郎右衛門・守護代(島田)平内太郎らが河口荘新郷政所に乱入し、「御供米以下色々御年貢」や鎧・腹巻・太刀・馬などを奪い去るという事件が発生した。この上御使・国司代・守護代の乱入に、坪江上郷住人河村新三郎・同所武里名名主岡弥次郎・友平名名主今村又五郎・牧村名名主中村春菊左衛門入道らが与力し、「さきをかけたる」ことが報告されている。つまり、本来ならば牒を受けて坪江上郷名主らに対し「供料以下布施物」の上納を催促しなければならないところ、上御使・国司代・守護代はこともあろうに抑留を続ける名主らと手を結んでいた可能性さえあるのである。
 名主らは、「供料以下布施物」が未納となっている土地は政所を経由しないで荘園領主に年貢を上納する「別納地」であって、政所の支配を受ける覚えはないと主張して上納を拒否していたのであったが、上御使らの政所襲撃事件によって事態は大乗院が予期していなかった方向へと展開し始めた。解決への期待を裏切られた大乗院の一僧侶は、「守護代による事態の打開を最も期待していたのに、今や守護代は寺敵となってしまった。このうえは、別の使節を立ててこれに下知を伝えさせなければならないので、河口近隣の地頭でしかるべき人があったらその名字を知らせてほしい」と、善後策をその書状に認めたが、同書状に語られる「本所一円御領の名主職は本所恩補の職なのだから、(抑留している名主については)その職を没収して穏便の人を補したなら年貢を全うするだろう。そうしなければこの事態が積習となって今後年貢を究済することは期待できない」という危機感は、この一僧侶だけのものではなかったろう(「御遂講雑類風記」紙背文書)。大乗院も必死に自力救済の途を探らなければならなかったのである。
 大乗院が「悪党」と称した上御使熊谷氏は、近江国塩津荘(滋賀県塩津町)の地頭で鎌倉後期以降湖北地方一帯に勢力を伸ばしつつあった。同じく国司代片上弥次郎は、おそらく藤原利仁流進藤氏のうち片上(今立郡方上荘)を称した一族に属する国人であろう。上御使熊谷と連記される片山兵庫助・守護代(島田)平内太郎については具体的徴証を欠くが、いずれにしても地方支配機構の末端を担う彼らの動向が後醍醐の構想した支配機構の成否を決めることは明らかだった。いかに後醍醐が国司人事に完璧を期しても、所詮トップ人事だけで支配機構を動かすことはできない。「自由狼藉ノ世界」が展開しているさなか、自らが所有する既得権を根拠にして、取れるだけのものを取るのがこの「世界」で生き残っていく最大の方法であったから、国家公権の末端に連なる特権を手にしている彼らが、これを活用しない手はなかった。坪江上郷名主らと政所の相論が生み出した混乱に乗じて、より利潤の得られる方向に熊谷・片上らは動いたのであろう。



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