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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    三 悪党と新政府下の混乱
      太良荘百姓らの嘆き
 建武元年(一三三四)十一月二十一日夜、太良荘寺家倉本百姓角大夫のもとを多勢で襲撃し、角大夫が保管していた米銭のほか、直垂・小袖・弓・矢などを奪い去った者たちがいた。すぐに在庁(国衙の役人)田中掃部助入道がその子四郎以下の人数を繰り出しての犯行と判明する。地頭所務代の国直は、犯行に加わった「悪党人」の交名(名簿)に奪われた品物の注文(目録)を添えて、守護所と国衙の目代に訴えた。ところが、守護代信景は国直の思惑に反して、角大夫逮捕を企て、同月二十六日、家人の日野新兵衛尉らを荘内に放ち入れたため、角大夫は怖畏のあまり逐電(逃亡)してしまう。目標を失った日野らは、翌二十七日、市の開催日で賑わっていた遠敷の市庭に乱入し、太良荘百姓新検校・孫次郎らが所持していた銭や、今買ったばかりの絹布などを強奪し、その身柄をも拘束したのである。白昼の出来事で市庭は混乱に陥ったが、これら一連の国衙・守護の犯罪ともいうべき事件の背景には、どのような事情が存在したのであろうか。
写真95 遠敷市庭跡(小浜市遠敷)

写真95 遠敷市庭跡(小浜市遠敷)

 同年十月、後醍醐は諸国荘園・郷・保の地頭職以下の所領についてその田数の注進を命じ、合わせて正税以下所出物の二〇分の一を「御倉」に進済させ、注進田数一〇町につき一日の割合で仕丁役(雑役夫)を課した。しかも、1「御倉」への進済が遅れれば三か月のうちに「一倍」(二倍のこと)を進済しなければならず、さらに遅れればその年の所務を「他人」に付けられ、2催促がなかったと偽ったり、田地を隠したりして進済を難渋しているという告発がありしだいその職は改易するという厳しい罰則規定つきであった。この法令は雑訴決断所牒により諸国に伝えられたが、先に述べた在庁田中掃部助入道らによる角大夫襲撃と、それに続く守護代信景らの市庭乱入事件は、この法令を執行しようとする国衙・守護所による実力行使と解釈することができる。太良荘地頭方はさまざまな理由をつけて、法令が執行されることを極力回避しようとしたのではなかったか。だからこそ地頭方の年貢が蓄えられていたと推定される角大夫の宅を襲い、年貢と称して米銭以下を奪ったのが在庁であり、捕捉に失敗した角大夫の代わりに遠敷市庭に来合わせた太良荘百姓から年貢としてその所持物を奪い、その身を拘束したのが守護代だったのである。東寺は在庁田中掃部助入道らを「悪党人」と呼び、守護代信景が「一国之奉行人」でありながら「悪党人」に引級(味方)したことを糾弾するが、「悪党人」もまた職務遂行という大義名分を掲げて行動していたのである。
 しかし、東寺も国衙・守護所もそれぞれの主張を支える論理を有していたにせよ、結局最大の被害を受けるのは百姓らであった。太良荘百姓らは得宗時代よりも課役が苛酷になっていることを惣百姓一揆によって東寺に訴えたばかりであったが(本章三節参照)、後醍醐の発した新たな法令が実施されることにより、過重負担のみならず在地の混乱が強まり、その被害者となった百姓らは後醍醐新政への批判を強めていくのである。
 そうした折りも折り、直阿が再び太良荘に入部してくる。今度は遠敷郡東郷地頭である中野民部房頼慶が荘内に東郷の田地があると称して乱入したのに対抗しての入部であったが、驚くべきことに、直阿は頼慶らを「悪党人」と糾弾するにあたって「新御倉御公事用途徴下案」と「同請取案」を訴状の具書(証拠文書)に添えた。「新御倉御公事用途」は前述の後醍醐の新税二〇分の一税をさすから、直阿はこれを負担していることを根拠に旧領の回復を企てたのである。後醍醐の新税法は、ただでさえ動揺と混迷を深めていた在地にさらなる混乱を付け加えたのである。
 南条郡大塩保八幡社の神主清原泰景が、国衙検注費用と称する地頭の新税要求に抗議して、本所(未詳)に訴えでたのは前年十二月のことである。しかし、後醍醐の新税法導入が、地頭によるこうした先例のない税目設定を加速させたことは疑いなく、泰景の期待も裏切られようとしていたのである(資6 大塩八幡宮文書二号)。



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