目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    二 国司と守護
      後醍醐新政のかげり
 直阿の乱妨停止を求める訴訟過程で脇袋氏を地頭代に起用したように、東寺は提訴のかたわら自力救済の途も開こうとしていた。新政府への過剰な期待はすでに失われていたのである。そうしたなかで、後醍醐の標榜する「綸旨万能」にもかげりがみえてくる。
 今立郡山本荘に対する湯浅宗顕の押領行為を訴え、建武元年二月、これを停止すべき旨の綸旨・国宣を得た鎌倉円覚寺の雑掌契智は、その執行を越前守護新田左馬権頭(堀口貞義)に依頼したが、守護は雑訴決断所の牒を受けるように返答したため、契智はやむなく雑訴決断所に再提訴し守護充ての牒を得ている(資2 円覚寺文書六・七号)。「綸旨万能」であれば、たとえ国司ルートの指令執行であれ、守護が綸旨を掲げて湯浅を退却させることは可能だったはずである。また契智の依頼も、国衙の強制力より守護の軍事力に期待してのことだったに違いない。それにもかかわらず守護は雑訴決断所牒を要求した。ここに、「綸旨万能」のかげりと国司を要とする地方支配機構の限界が看て取れる。
 こうして、「綸旨万能」の理想も、近臣を国司に配置し国司を要とした地方支配機構を構築する構想も、新政開始からわずか半年余で崩壊の危機を迎えることになった。新政に対する不信感は日増しに強まり、史上有名な『二条河原落書』が、「謀綸旨」の横行を指弾し、「器用堪否ノ沙汰モナク、モルヽ人ナキ決断所」と雑訴決断所が裁判官としての能力を欠く者たちをも含みこんだ寄せ集め所帯に化していることを暴露したとき、新政に託した思いのすべてが無に帰していくのを人びとは感じたことであろう。『落書』はこれを「自由狼藉ノ世界」の到来ととらえた。



目次へ  前ページへ  次ページへ