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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    二 国司と守護
      二つの指令伝達ルート
 元弘三年十一月十九日、太良荘に対する若狭直阿の乱妨を停止し東寺雑掌へ所務を引き渡すべしとの綸旨が若狭守洞院公賢に下された。それはその月の初旬、綸旨を受けた両使本郷貞泰・藤原(三方)貞清が太良荘への入部を試みたものの、直阿は「堺を掘り切り、城郭を構えて」これに抵抗し、結局雑掌への所務引渡しが実現できなかったという深刻な事態を受けての指令である。同月二十九日、公賢は目代波多野毘沙王丸(波多野因幡入道通貞の子通郷。図17)に藤原光遠(光子の兄)の奉ずる国宣を下し、守護人・上御使に相触れて沙汰するよう命じた。守護は出雲佐々木氏の一族布志名雅清である(「守護職次第」)。上御使(国上使)はその姓名こそ未詳であるが、国司・守護とともに諸国に置かれた地方官(武士)といわれている。そして十二月十五日、「御使」による所務引渡しが実現し、東寺は寄進された太良荘地頭職を初めてわが手にしたのである。
図19 佐々木氏略系図

図19 佐々木氏略系図

 目代に武士である波多野毘沙王丸が起用されていることは、国司を要とした地方支配機構とはいえ現実的な選択であり、目代がともに軍事力を保有する守護人・上御使を指揮して、直阿の乱妨停止・東寺雑掌への所務引渡しを実現しうる立場にあったことは注目してよい。すなわち、前述した後醍醐の意図どおりに国司を要とした地方支配機構が機能していることを示しているのである。
 ところが、所務引渡しの翌十六日、早くも直阿は与党を率いて年貢米の強奪を企て成功する。東寺は再び訴訟を開始し、直阿ら「悪党」の非法を糾弾し綸旨の再発給を願うとともに、在地における直阿の対抗勢力として脇袋頼国を地頭代に起用する。脇袋氏はかつて得宗により太良荘末武名名主職を奪われた点で、直阿と同じ得宗専制の被害者であるが、ここにいたって得宗以前の地頭若狭氏と競合する立場に転じたのである。
 東寺の提訴を受けて、建武元年三月二十七日、直阿の乱妨停止と東寺雑掌への所務の引渡しが命じられた。しかし、今度は綸旨ではなく、新設の雑訴決断所の牒による指令であった。雑訴決断所は、頻発する訴訟の処理能力を強化するために元弘三年の秋(九月ごろ)に設置された裁判機関である。そして、雑訴決断所がその裁定を示すさいに発給される文書の形式が牒で、このときは、若狭国衙(国司)・若狭守護所および若狭国上使充ての三通が下されたようである。牒を受けた国衙(国司)は四月十一日、中原康綱の奉ずる国宣を目代に下し、同月十四日、守護布志名雅清も施行状を守護代に下した。国上使と推定される源盛信(加地氏か)は、六月二十八日付の請文を進めて季兼(直阿の子)が恭順の意を示したことを報告しているので、ここで東寺の荘務は回復されたと考えられる。
 しかし、このように牒が国衙・守護・国上使それぞれに充てて下され、おそらくは相互になんらの連携もなく指令執行が行なわれた事実は、前年十一月の指令執行の場合と異なり、現実に機能している地方支配機構が後醍醐の構想とは異なるものであったことを示している。もともと雑訴決断所は、訴訟当事者として裁判の遅滞に焦燥感を強めつつあった人びとの期待を背景に、新政府の人事から意図的にはずされていた武士たちが足利尊氏のもとに結集し、尊氏が武士たちの新政府批判を代弁した結果新設された機関で、旧鎌倉幕府の法曹官僚を中心に多くの武士がその職員として参画していた。したがって、その裁定を執行する現場で、守護や国上使となっている武士が重要な役割を担うようになるのはむしろ自然な流れであった。



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