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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    二 国司と守護
      若狭国司伊賀兼光
 元弘三年(一三三三)八月五日、新政権最初の国司人事で越前守となったのは中御門宗重である。宗重は、日記『中右記』を遺したことで著名な平安期の公家中御門宗忠の子孫で、その弟宗兼は記録所寄人から蔵人となり、蔵人頭を経て参議に昇進を遂げ、建武四年(一三三七)二月、武家に斬首された後醍醐の側近中の側近である(『公卿補任』、『尊卑分脈』)。
 宗重は翌建武元年三月越前守の任を去り、同八月、冷泉定親が越前権守に任じられた。定親の父頼定は、前年六波羅探題が光厳上皇らを奉じて東下を企てたときにこれに従い、近江国番場宿あたりで出家を遂げた人物である。しかし、定親の妻が藤原光久の娘で後醍醐の乳母となる光子の妹にあたるため、後醍醐方の人事に連なることが可能となり、翌二年五月まで在任した(同前)。
 最初の若狭守は洞院公賢であった。公賢の妻は前述の後醍醐の乳母光子であるから、越前権守冷泉定親とは奇しくも姻戚となる(図17)。後醍醐の新政復活とともに内大臣に還任したのち、元弘三年八月十日に若狭国司となり、旧得宗領である税所今富名の領主にもなっている(「税所次第」)。公賢は当時有数の文化人として知られ、著書も多く日記『園太暦』を遺した。
図17 若狭国司関係系図

図17 若狭国司関係系図



図18 伊賀氏略系図

図18 伊賀氏略系図


 以上のように、越前・若狭の国司に任命された人びとはいずれも後醍醐近臣の公家であり、公賢のような高官も含まれていたが、ただ一人、鎌倉幕府の高官から後醍醐の近臣へと転身を遂げ、若狭国司となった人物がいる。伊賀(山城)兼光である。
 伊賀氏は鎌倉幕府の有力御家人として幕府評定衆などの要職に就いてきたが、兼光の父光政は若狭国税所今富名(得宗領)の代官として得宗に奉公しつつ、一方で遠敷郡津々見保・三方郡日向浦などを領有する在京人として六波羅評定衆の要職にもあった人物である。一族の光範とその子孫も若狭国内に所領を有しているから(資9 神宮寺文書一・二号)、若狭は伊賀氏にとって、光綱流の陸奥国好嶋荘(福島県いわき市)とならぶ重要な経済基盤だったのである(図18)。山城は光政の官途山城守に由来する。兼光もまた六波羅引付頭人となったが、今富名代官の地位は父の代にすでに得宗被官の工藤氏に与えられており、若狭国内の所領も得宗の圧迫を受けていた。元亨四年、兼光が後醍醐の護持僧文観とともに「大願主」となって、倒幕の祈りをこめた大和般若寺文殊菩薩像を造立したのは、そうした状況から生じた反得宗の意思表明だったといわれている。こうして後醍醐の近臣の列に入った兼光は倒幕と新政復活を陰で支え、建武元年九月十三日、公賢のあとを受けて国司となったのである(「税所次第」)。兼光は雑訴決断所など中央官庁の要職を兼ねていたので、公家の越前・若狭国司と同様、現地に赴任することはなかった。しかし、若狭において築かれていた伊賀氏の伝統が兼光の国司としての職務遂行に若干なりとも効果をあげることが期待されたことは疑いない。



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