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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    二 国司と守護
      後醍醐天皇の政治理念
 君主独裁制といわれる後醍醐の政治理念を象徴する言葉に「綸旨万能」がある。綸旨とは、天皇の意思をその秘書官ともいうべき蔵人が奉じて発給する文書をいうから、すべての政治的決定が綸旨を用いて公布されることを望み、あるときは、自ら筆をとって綸旨を認めたという後醍醐の政治的姿勢を表現する言葉として、また綸旨がなければすべてが始まらないという後醍醐政治の特徴をとらえた言葉として、これ以上要を得た言葉はない。
写真93 後醍醐天皇綸旨(大安寺文書)

写真93 後醍醐天皇綸旨(大安寺文書)

 もう一つ、「高氏なし」という言葉が後醍醐の周囲でささやかれていた。これは新政復活にいたる過程での足利高氏の功績、特に武家の束ねとしての彼の影響力が逆に脅威となって、新政権のなかで枢要な部署から遠ざけられていたことをいう。後醍醐がめざしたのは天皇を中心とした公家一統政治であったが、武士はあくまで権力の走狗であればよいという武士観は、後醍醐の側近公家たちのなかにも根強くあり、高氏の据えられるべき部署はなかなか見出されなかったのである。
 しかし、どんなに研ぎ澄まされた政治理念が存在しても、それを生かし実現させる機構と人材を得なければ所詮絵に描いた餅に過ぎない。後醍醐はその問題を克服すべく、元亨元年(一三二一)に彼が新政を始めて以来、家格や年功序列に関係なく能力により近臣として登用してきた人びとや信頼のおける近親者を、新政を支える中央官庁(記録所・窪所など)に配置する。もちろん武士は冷遇されている。

表14 建武新政期の越前・若狭の国司と守護

表14 建武新政期の越前・若狭の国司と守護
 地方支配機構は国司・守護併置制をとった(表14)。鎌倉幕府守護制度のもとでは、旧来国司の権限として行なわれてきたことの多くを守護が掌握していく傾向が強まり、国司の地位は空洞化しつつあった。後醍醐はこれに対し、守護の権限を犯罪人検挙やその財産没収など武力行使をともなう職務に限定し、地方支配の要としての国司制度を復活させ、その国司に後醍醐の近臣を配置して地方支配を貫徹しようと考えたのである。併置制とはいえ、守護に対する国司の優越は明らかであった。



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