目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    一 反得宗勢力の台頭
      新政権の課題

[準備中]

写真92 後醍醐天皇画像

 旧得宗領をどう再配分していくかは後醍醐にとって最初の、そして最大の政治課題の一つであったが、後醍醐の意思とは別に在地では急速な失地回復運動が展開され、一つの所領をめぐって対立する両者が相互に「悪党」と相手を非難しおとしめあう状況が生まれていた。しかも彼らはそれぞれに発見あるいは発掘した「由緒」を掲げてその正当性を主張し、自らが浮き上がるためにさまざまな権謀術数を用いた。しかし、後醍醐はそれらのすべてについて是非の判断を下さなければならなかったのである。裁判権力としての公平性と迅速性、そして混乱を収拾できるだけの強制執行能力、この二つが後醍醐と彼が主導する政権に求められた政治力であったろう。
 若狭で失地回復運動が本格化しつつあった元弘三年六月七日、越前三国湊でも因幡阿闍梨以下の「悪党」が強盗・殺害・刃傷事件をおこしたことが興福寺に報告されている(「建武元年記」)。後醍醐とその政権が解決しなければならない課題は、越前・若狭にも山積していたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ