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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    一 反得宗勢力の台頭
      あらゆる由緒の発見と主張
 日本列島の全域にわたってその支配権を行使していた権力が崩壊するのであるから、全国的な内乱状況が引き起こされても不思議ではなかったが、いくつかの局地戦のみで得宗権力が消滅した結果、戦乱による疲弊を受けることなく厖大な旧得宗領が残されることになった。親政を復活させた後醍醐はこれらすべてを没収し、得宗により不当に所領を奪われていた人びとへの返付、倒幕に功績のあった者たちへの恩賞など再給与を開始するが、鎌倉末期に全体の三分の一を越える所領が得宗および北条氏一族のものとなっていた若狭では、これらの旧得宗領をめぐって壮絶な争奪戦が繰り広げられようとしていた。
 元弘三年(一三三三)五月二十九日、旧得宗領の遠敷郡国富荘地頭職が領家である小槻匡遠に与えられた。これが若狭における旧得宗領給与の初例であるが、「悪党」(「先地頭代」ともみえる)が乱妨しており、小槻氏の地頭職得分入手は困難な状況にあった(『壬生家文書』三二一号)。同年九月一日、かつて若狭忠兼が得宗に奪われた遠敷郡太良荘地頭職が東寺に寄進される。しかし、返付を期待していた忠兼(法名は直阿)は実力による太良荘地頭職の奪還を企てて荘に入部し年貢米を奪い、東寺の知行はなかなか実現しない(本節二参照)。得宗権力の消滅と同時に、得宗恩顧の人びとの必死の抵抗と、得宗により既得権を奪われ雌伏を余儀なくされていた人びとの失地回復運動が開始されたのである。
 失地回復運動のなかで最も正当性を与えられ、またそれゆえに強硬に主張されたであろう論理は、「自分はかつて得宗によりその所領を奪われた。だからそれを得宗の恩顧を得て知行してきた者たちの手から奪還するのは極めて正当な行動である」というものであったろう。東寺から「悪党」と称された直阿は、まさにその論理をかざして実力行使していたのであった。中世の法慣習に、罪科などにより没収されたり、あるいは売却・譲渡した所領であっても、本主(もとの持ち主)はその所領に対して潜在的な所有権をもち続け、本主の復権や本銭返(代銭の返却)によりその所領を回復できるというものがあったことが知られているが、得宗なき今、第一に次の知行者になりうる資格を有すると考えられたのは、その法慣習によれば本主である直阿に他ならない。いずれにしても、直阿に代表される得宗専制の被害者たちは、得宗権力の消滅によって生じた権力の空白状況のなかで、失地回復の名のもとにさまざまな「由緒」を主張し、失地ばかりかそれ以上のものを獲得して、得宗専制時代の没落を埋めてあまりあるほどの転身をもくろんでいたのである。
 転身といえば、得宗恩顧の人物の見事な転身もある。得宗と結び太良荘内に威をふるった石見房覚秀は、新任の預所朝信が下向するとさっそく任料を進上して助国名等を確保し、助国名主に「過去」を糾弾されるや、上洛してこれに反論し窮地を乗り切っている。得宗恩顧の人物と考えられる国富荘「先地頭代」の行く末は未詳であるが、覚秀のように時流をとらえ生き残った得宗恩顧の人びともいたのである。



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