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 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    一 反得宗勢力の台頭
      得宗権力の崩壊
 元弘三年(一三三三)五月、京都六波羅は紅蓮の炎に包まれた。中心人物たる後醍醐天皇が隠岐に流され、挫折したかにみえた二度目の倒幕計画が、楠木正成らの粘り強い戦略によって持続され、その楠木らを討つべく鎌倉を発したはずの足利高氏(尊氏と名乗るのは元弘三年八月から)が途中、丹波国篠村(京都府亀岡市)で引き返し、六波羅探題を襲撃したのである。
写真91 僧恵尊軍忠状(大音正和家文書)

写真91 僧恵尊軍忠状(大音正和家文書)

 この六波羅攻めに大飯郡加斗荘の黒駒宮神主である上野房恵尊が参戦している(資8 大音正和家文書四九号)。高氏が篠村から諸国の武士らに発した軍勢催促の御教書は、当然のことながら越前・若狭の武士たちのもとにも届いていたのである。しかし越前守護・六波羅評定衆を世襲した後藤氏、吉田郡志比荘地頭の波多野氏、遠敷郡鳥羽上保下司で六波羅奉行人であった松田氏、大飯郡本郷地頭本郷氏などはみな在京人(京都常駐の御家人)であったが、六波羅探題終焉の地となった近江国番場(滋賀県米原町)蓮華寺に伝わる過去帳に彼らの名を見出すことはできない。おそらくは、他の在京人らと同様に六波羅方から離脱して足利方に参じたものと思われる。
 離脱したというと何か裏切りのようにも聞こえるが、武士が自らの主人を自由に選択するのが当時の武家社会の通例であって、時の情勢を的確に判断しながら、誰に付いてどう戦えば自分に最も有利であるかを決定し行動する能力がなければ、とうてい生き残れないのが彼らが直面していた現実であった。しかし、彼らが六波羅探題を見限る積極的な理由も存在した。
 六波羅探題は南北両探題(北条氏)とその家人である探題被官、および在京人である西国守護・西国地頭らによって構成されていたが、鎌倉末期にいたって探題被官の発言力が在京人のそれを凌駕するようになったといわれている。六波羅評定衆や守護、あるいは守護とは別に指令執行の任務を担う「両使」として、在京人もまた六波羅探題のなかで重要な役割を果たしていたが、彼らの発言力は相対的に弱まっていったのである。もともと、鎌倉で得宗を中核とする北条氏一族の専制政治が展開するなかで、疎外感を味わいながらの生活から自らを解放する目的で、西国の所領に移住してきた御家人らが在京人の大半を占めていたから、こうした事態の進展は彼らにこのうえない不快感を与えたであろう。在京人のなかに後醍醐の倒幕計画に内応する者が生じても決して不思議ではない状況がすでに存在していたのである。
 こうして六波羅探題は滅び、ついで鎌倉の幕府も新田義貞の攻撃の前にもろくも崩壊して果てた。そして、日本列島の各地でその権勢をほしいままにしていた得宗権力の姿も幻のように消えていったのである。



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