三国湊は興福寺領坂井郡坪江郷の一角を占めてはいるが、津料など湊からあがる収益は天皇の食事を司る内膳司の支配下にあった。興福寺もまた湊雑掌を通じてこれらの収益の一部を取得していたが、この事件がおこったころは、大和長谷寺などもその収益の配分に割り込んでいたらしい。日本海海運の盛行がもたらす富が寄港地である三国湊にも蓄積され、中央寺社や天皇家の経済を支えていたのである。ところが、ここに「関東御免」の旗を掲げた大船が入港してくる。そして、強大な政治力を背景にして津料の徴収を拒否するばかりか、日本海海運がもたらす富の配分に割り込み、奪い去ろうとする。得宗専制はまさしく経済的支配、富の独占の構造でもあった。このような状況下で「関東御免津軽船」が押し取られたのである。三国湊の住人らの意図はむしろ明確であろう。本阿は船と積荷の返還を求めて鎌倉幕府に訴えた。幕府も現地に使者を下して住人らを召喚し、さらに六波羅探題を通じて興福寺にも住人らの召進を要求したが、ともにならず、訴訟は停滞したのである。
三国湊では、この事件と相前後して若狭国遠敷郡の矢代浦や志積浦の廻船とも紛争を生じている(「大乗院文書」、資9 安倍伊右衛門家文書一四号)。日本海海運への得宗権力の参入は、「関東御免津軽船」への「悪党」的行為ばかりでなく、得宗とはおそらく無縁な廻船に対する「悪党」的行為をも誘発したのである。 そして、さらに越前・若狭に本拠をおく武士たちもまた富の配分にあずかろうとそれぞれの行動をおこしていた。正安二年(一三〇〇)、三方郡小河浦の押領を企てた倉見平六は、他の若狭国土着の御家人らと同様、鎌倉幕府に冷遇されて地頭職を得られなかった倉見氏の一族と考えられるし(資8 大音正和家文書二四号)、正和五年(一三一六)、三国湊あたりに数輩の「悪党」を入れて津料をめぐって日吉十禅師神人を殺害した深町式部大夫は、出自こそ未詳ながら越前国土着の武士であった(「大乗院文書」)。
得宗が日本海海運のもたらす富に注目し、荘園公領制的な秩序のなかで成立していた富の分配ルールを無視する形で強引に富を得ようとしたとき、得宗への抵抗とともにさまざまな「悪党」的行為が開始されたのである。 |