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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    四 律宗・法華宗の動き
      律宗の展開
 鎌倉期の体制仏教の思想潮流には、二つの流れがあった。一つは本覚論の潮流であり、もう一つが戒律興隆の動きである。本覚論は煩悩即菩提・衆生即仏を説いて持戒や苦行を不要としたため、顕密僧の破戒・濫行や寺社焼打ちの口実とされるなど、悪僧の活動の正当化に援用された。それに対し朝廷・幕府は悪僧を厳しく取り締まると同時に、僧徒の濫行を批判した。こうした政府の悪僧対策に呼応する形で、鎌倉初期に顕密仏教の内部から悪僧批判の潮流が噴出し、戒律重視の改革運動が勃興したのである。
 栄西は戒律復興による王法・仏法の再建をめざしたし、俊・曇照は南山律を伝えて京都泉涌寺・戒光寺を拠点に活動した。叡尊・覚盛らは西大寺・唐招提寺を拠点に真言律を展開したし、鎌倉後期には恵尋・恵・伝信興円らの天台律の動きも登場し、戒律興隆は宗派の枠を超えた運動となった。こうしたなかで最も顕著な動きをみせたのが、叡尊の西大寺流律宗である。西大寺流は鎌倉後期に北条得宗と結んで全国に展開し、顕密寺社の復興や交通路整備にあたるとともに、光明真言・釈迦念仏・融通念仏を勧進して民衆の信仰をも獲得していった。
 さて「授菩薩戒弟子交名」には越前出身の僧が二名みえており、叡尊の弟子に越前出身者がいたことがわかる。とはいえ、越前・若狭における鎌倉期の律宗の動向については、「愚闇記」で律僧が猿楽や白拍子を見聞していることを揶揄している程度で、具体的な宗教活動は不明である。越前・若狭と西大寺流との関係が確認できるのは、敦賀津での津料徴収と、興福寺領での西大寺末の展開ぐらいである。
 永仁六年四月、伏見天皇の綸旨によって京都祇園社の本地供の祈りが西大寺に命じられ、その供料として敦賀の津料および敦賀郡野坂荘の年貢が充てられている(「西大寺田園目録」)。また徳治二年(一三〇七)から五年間、敦賀津の関料が醍醐寺・祇園社と西大寺の修理料に充てられており(資2 西大寺文書四号)、西大寺流律僧が敦賀津での交通税の徴収にたずさわっていた(本章五節三、五章二節参照)。橋の造営や寺社の修理のために津料・関料といった交通税を徴収することがこのころから多くなったが、西大寺流はこうした潮流を推進した中心的存在であった。
 ところで、「西大寺光明真言過去帳」の十四代長老尭基(一二九六〜一三七〇)の項には神宮護国寺・大善寺の僧侶の名前がみえるし、明徳二年(一三九一)の「西大寺末寺帳」には坂井郡金津の神宮護国寺と兵庫の大善寺・長福寺が登場しており、南北朝期に越前で律宗寺院が展開していたことがわかる。これらの寺院はいずれも廃絶しているが、このうち神宮護国寺は坂井郡坪江郷にあり、大善寺・長福寺は河口荘兵庫郷にあって、すべて興福寺領に存していた。では西大寺末寺が興福寺領に展開していたのには訳があるのだろうか。
 叡尊が西大寺運営権を興福寺から寄進されるなど、西大寺流と興福寺はもとから親密な関係にあったが、越前で両者の接触が確認できるのは、春日神社の造営をめぐってである。興福寺は正応元年(一二八八)に後深草院から坪江郷を寄進されると、永仁六年に春日社を大和三笠山から金津に勧請した。当時、一般に荘園支配の宗教的拠点として末寺・末社が設立されることが多かったが、この勧請に西大寺の浄賢が関与していたのである。そして正和四年には、金津の八日市人が神宮護国寺と惣鎮守新春日社の造営のために浄賢にゆだねられている(「坪江上郷条々」、「雑々引付」)。つまり浄賢は金津の市庭を料所として春日社とその別当寺の神宮護国寺を造営し、護国寺はその後も西大寺流の僧侶によって運営されたのである。このように興福寺の荘園支配に積極的に協力するなかで、河口・坪江荘に西大寺末寺が形成されていった。しかも金津は交通の要衝であり(本章六節五参照)、西大寺流の末寺が陸海交通路の結節点に形成されることが多いという特徴がここでも確認できる。とはいえ、西大寺流のもう一つの大きな特徴である民衆布教については、越前・若狭ともになお不明である。



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