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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    四 律宗・法華宗の動き
      日像と法華宗
 越前・若狭における法華宗の展開は、日像とその門流が中心であった。それ以外では日蓮六老僧の一人である日興が、最晩年の元弘二年(一三三二)に佐渡妙宣寺日満を北陸道七か国の法華宗大別当に補任しているが(「妙宣寺文書」)、越前・若狭での日興門流の活動は確認できない。
 さて日像(一二六九〜一三四二)は法華宗の洛内伝道を最初に果たした人物である。四〇年にわたる「三黜三赦」(京都からの三度の追放と三度の赦免)の苦難の後、日像は建武元年(一三三四)に京都妙顕寺を法華宗初の勅願寺とすることに成功した。この勅許は法華宗の公認を意味しており、教団発展史のうえで重大な意義を有するが、諸宗と同一レベルで公武祈を行なうことは、不受不施の原則から王侯を除外したことを意味し、宗義上の問題も残した。
写真89 南条郡妙泰寺(南条町西大道)

写真89 南条郡妙泰寺(南条町西大道)

 日像は永仁元年(一二九三)に上洛・布教を決意し、翌二年二月に鎌倉を出発し、佐渡・北陸道を経由して四月初めに京都に到着した。その間、能登・加賀・越前・若狭などに布教の跡を残したという。例えば能登石動山天平寺(石川県鹿島町)の山伏大宮房(日乗)を折伏しているし、越中羽生八幡の社僧だったその弟の妙文も日像に帰して、南条郡西大道(南条町)の妙泰寺や同郡今宿(武生市)の妙勧寺を開創した。敦賀の妙顕寺はもと気比社と関わりのある真言宗寺院であったが、住持覚円が日像に四六か条にわたる宗義批判を行なったところ、見事に弁折されて法華宗に転じたという。また小浜の禅僧であった日禅も日像に帰して入洛に同道し、のちに小浜妙興寺を開創したという(「本化別頭仏祖統紀」)。
 もちろん、以上の開創伝承すべてに信が置けるわけではない。しかし正和二年(一三一三)の「愚闇記」では、「日蓮坊の流」が南無阿弥陀仏の六字名号を棄破していることを批判している。このことは、天台僧が念仏系と法華宗との対立・抗争を問題にしなければならないほど、越前での法華宗の活動が活発だったことを物語っている。日像の布教後わずか二〇年とはいえ、法華宗の勢力もまた着実に定着しつつあった。



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