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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    三 越前・若狭の専修念仏
      時宗の展開
 『愚闇記』では二〇か条の批判のうち四分の一にあたる五か条を時衆批判にあてており、鎌倉末期に越前で時衆が着実に展開していたことを示している。さて時宗とよばれる宗派は、近世に一遍の系譜を引くものと一向俊聖の系譜のものが合体させられてできあがった。一遍は諸国を遊行して念仏を勧め、信不信に関わらず往生を約する賦算を行なったが、越前・若狭に足を踏み入れた形跡はない。当地における時宗の展開に大きな役割を果たしたのは、その弟子の他阿真教である。
写真87 他阿画像

写真87 他阿画像


写真88 府中総社における他阿(「一遍・他阿上人絵伝」、部分)

写真88 府中総社における他阿(「一遍・他阿上人絵伝」、部分)

 他阿真教(一二三七〜一三一九)は建治三年(一二七七)に豊後で一遍の門下となり、一遍とともに遊行した。正応二年(一二八九)に一遍が没すると、他阿はその後継者となり北陸・関東を中心に遊行した。そして時衆統制のために知識を「仏の御使い」として絶対服従させ、『時衆過去帳』を作成するとともに、時衆の定住化を図って時宗教団を確立した。その意味で他阿真教は時衆の教団確立のうえで大きな功績を残したが、それは同時に、知識帰命のような権威主義的教団編成と時衆教義の変質をも随伴していた。
 一遍の跡を継いだ他阿真教の活動が、本格的に社会的に認知された最初の地が越前であった。正応三年夏、越前にやってきた他阿は、国府(武生市)惣社の招請を受けて七日間参篭した。そののち今立郡に赴いたところ、神主や国府の人びとに神託・霊夢があり再び惣社に招かれた。さらに丹生郡佐々生(朝日町)や今立郡瓜生(武生市)で念仏勧進を行なっていると、惣社から招請されて歳末七日の別時念仏を勤修したという(「一遍・他阿上人絵伝」)。このように他阿真教は何度も繰り返し惣社から招かれている。惣社という、国衙に影響力をもった神社で歓待されたことは、勧進を行なううえで有利にはたらいたはずである。ちなみに彼が念仏勧進を行なった佐々生には時衆道場があり、遊行十四代太空のときに但阿弥陀仏や覚阿弥陀仏(佐々生入道)らの時衆を輩出している(『時宗過去帳』)。また瓜生からは、国阿の弟子である其阿弥陀仏が出て敦賀来迎寺の住持となっている(「国阿上人伝」巻五)。
 その後、他阿真教は加賀に赴いたが、正応五年の秋、越前に招請されたついでに再び惣社を訪れた。そこへ平泉寺の衆徒が押し寄せて他阿を追却しようとしたため、他阿は惣社神主の要請でやむなく加賀に立ち去った(「一遍・他阿上人絵伝」)。わずか二年ほどの布教とはいえ、平泉寺が危険視しなければならなかったほど他阿の声望が高まっていた。このほか敦賀でも布教しており、近江から北陸にかけての地は彼の遊行活動が最も活発に展開された地であった。そのこともあって、歴代の遊行上人は必ず坂井郡長崎(称念寺)に立ち寄っている。
 一方、一向俊聖(一二三九〜八七)は他阿真教より以前に越前で足跡を残した。一向は一遍と同時期に活躍した遊行の念仏聖で、播磨の書写山円教寺で出家してのち、鎌倉の良忠に師事した。良忠は法然の孫弟子にあたり、浄土宗第三祖とされる人物で、「選択伝弘決疑鈔」「決答授手印疑問鈔」などを著して浄土教学を大成している。さて一向は文永十年に良忠のもとを辞し、浄土の宗名も経論義学も投げ捨てて、遊行の旅にでた。彼は諸国を遍歴して念仏を勧め、時衆と称して弟子に阿弥号をつけ、踊り念仏を行なうなど、一遍と酷似した活動を行なった。賦算を行なわなかった点で一遍と異なるが、それ以外の面では二人は大変よく似ていた。とはいえ、二人の間には直接的な交渉は全くない。つまり全く交流のなかった二人の念仏聖が、それぞれ独自に踊り念仏を行ないながら念仏を遊行勧進していたのである。鎌倉後期には一遍や一向俊聖のような念仏聖が幅広く活動しており、二人ともそうした潮流の一存在に過ぎなかった。
 一向俊聖は弘安七年に加賀国金沢で踊躍念仏を行なったあと、越前に赴き「武田の荘司」という豪族の供養を受けた。これによって、口のきけなかった豪族の息子が話し始めたため、武田はその奇瑞に驚いて、一向に阿弥陀像と仏舎利を献じた。これが武田如来・武田舎利といわれるもので、のちに一向派の拠点たる近江国番場(滋賀県米原町)の蓮華寺に安置されたという(「一向上人伝」巻四)。話そのものは神秘化されているが、一向俊聖の越前来訪は事実とみてよかろう。ただしその後の一向門流と越前・若狭との交渉は確認できない。



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