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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    三 越前・若狭の専修念仏
      「愚闇記」
 鎌倉後期における越前の宗教状況を鮮やかに示す史料に、「愚闇記」がある(『真宗史料集成』四)。これは正和年間(一三一二〜一七)または正和二年に、今立郡長泉寺の孤山隠士が二〇か条にわたって諸宗を批判したものである。この長泉寺は霊池山と号する天台宗寺院で、泰澄が白山を勧請して白山姫社と長泉寺を創建したとの伝がある。平泉寺の末寺で、朝倉期は寺領数千石・寺坊三六を数えたというが、天正二年(一五七四)の一向一揆で焼亡した(『越前国名蹟考』など)。『時衆過去帳』によれば、貞治二年(一三六三)に「音一房」(長泉寺)の往生の記載がみえるし、それ以後にも長泉寺時衆の記載がある。「愚闇記」は時衆を厳しく批判したが、それから数十年ののちには、長泉寺の内部にまで時衆の影響が及んでいた。
 「愚闇記」の著者孤山隠士は、長泉寺別当法印とも、また徳若丸という童子が隠者になって長泉寺に住んだとも伝えられているだけで(「中野物語」)、詳細は不明である。いずれにせよ、当地における体制仏教の中核にあった人物とみてよかろう。「愚闇記」の完本は発見されておらず、念仏を批判した箇所だけが部分的に伝わっているだけだが、二〇か条の事書はすべて残っており、これをもとに本書の大筋を推測することができる。事書は次のとおりである。
 (1)踊躍念仏は仏説にみえないこと、(2)踊躍の衆いずれもが飯・汁と御菜とを混ぜ合わせて食事をしていること、(3)踊躍の衆が網衣(時衆が着用した網のような粗い布で織った粗末な衣服)を死人の上にかけて覆うこと、(4)踊躍の衆が道場で連歌を行なっていること、(5)踊躍の門弟らが六字名号南無の義を立てていること、(6)念仏の行者が臨終のさいに端座して合掌するよう勧めていること、(7)念仏の行者が毎日の勤行と称して早念珠を行なっていること、(8)念仏の功徳は亡者のために得益がないこと、(9)聖道門の僧侶たちが学文を嗜まないこと、(10)堂社参詣のついでに縁者を訪ねること、(11)聖道門でさかんに陰陽師を請用すること、(12)聖道門での如法経の行儀にいろいろ不法な点があること、(13)堂舎を造るために他所の材木を切りとること、(14)持律の比丘が猿楽や白拍子を見聞すること、(15)聚洛田里に寺院を建立すること、(16)禁忌を破って神社に参詣すること、(17)飲酒や沽酒は僧侶に不相応なこと、(18)師匠が貧窮・零落すれば弟子が手紙すら寄こさなくなること、(19)日蓮坊の流の人びとが六字名号を破折すること、(20)一向念仏と称して浄不浄を無視して念仏を唱え阿弥陀経などを読経しないこと。
 本文がほとんど残っていないため、それぞれの条項が何を対象に批判しているのか正確にはつかめないが、おおよそのことはわかる。まず(1)〜(8)までと(16)(20)の一〇か条が念仏に関するもので、本書のほぼ半分がこの問題に充てられている。しかも念仏関係のなかで「踊躍の衆」と「念仏の行者」が分けられているし、また「一向念仏」と称する人びとも別立されている。これはそれぞれ時衆・顕密系浄土教・浄土真宗にほぼ対応しており、これらが当時、越前で展開していたことを示している。また(14)(19)では律宗・法華宗への批判も登場しており、これによって鎌倉末期に越前で律宗や法華宗が一定度展開していたことが判明する。このように「愚闇記」は、越前の天台僧が十四世紀初頭段階で何に対して危機観を抱いていたかを直截に示しており、体制仏教側からみた越前仏教界の俯瞰図といってよい。
 さて「愚闇記」は他宗派を攻撃するだけではなく、顕密仏教の現状に対する自己批判も行なっている。(9)学問衰退、(10)参詣不法、(11)陰陽師請用、(12)如法経不法、(13)材木伐採の五か条がそれであり、(15)寺院建立、(17)飲酒・沽酒、(18)弟子不法の三条もその可能性が高い。なかでも学問の衰退を愁えていることが注目される。天台律の恵鎮円観は永仁三年(一二九五)に延暦寺に入室したが、そこでは坊主も同朋も、まるで「勧学の志なく、偏に兵法を専らに」していたと述べており(「五代国師自記」)、この時期の延暦寺の退廃ぶりを示している。また仁和寺菩提院行遍(一一八一〜一二六四)の「参語集」には、越前平泉寺での稚児の扇闘の様子が描かれているが、そこではそれぞれの稚児が金銀をちりばめ贅をこらした扇を競いあっており、鎌倉期の平泉寺の雰囲気がうかがえる(資1 「参語集」)。
 第一二条では如法経にふれている。これは近江・若狭などで、天台系寺院が民衆の信仰を獲得してゆくさいの要ともなったものであるだけに、如法経の威儀作法がないがしろにされている現状に「愚闇記」は特に危機感を表明している。また顕密僧の飲酒は当時日常的に行なわれていたが、沽酒もさかんとなっている。永徳二年(一三八二)に制定された坂井郡滝谷寺の寺院法では、わざわざ寺内での酒の売買を禁止しているし(資4 滝谷寺文書一号)、豊原寺のあった越前豊原は名酒の産地として全国的に著名であった(「尺素往来」)。このように「愚闇記」は、他宗派を批判するだけではなく、学問が衰え信心がゆるみ、威儀作法をないがしろにしている顕密仏教界の現状をも、厳しく自己批判している。
 さて、この「愚闇記」に反論した書物がある。大町如道の「愚闇記返札」(『真宗史料集成』四)である。そこで次に如道についてみてみよう。



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