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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    三 越前・若狭の専修念仏
      玉桂寺阿弥陀像と北陸地域
 昭和五十四年(一九七九)、滋賀県信楽町にある玉桂寺の阿弥陀仏像の胎内から大量の文書が発見された(『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』、以下『報告書』と略)。勢観房源智(一一八三〜一二三八)の筆になる造立願文と、この作善に結縁した四万六〇〇〇人余の道俗の交名(名簿)約三〇点である。源智の願文によれば、この仏像は法然の恩徳に報謝するために造立したという。この事業の中心になった勢観房源智は平重盛の孫で、一三歳で法然のもとに入室し『選択本願念仏集』を付属されて「常随給仕」すること一八年に及んだ、法然の側近中の側近である。
 この願文の日付は、建暦二年(一二一二)十二月二十四日となっている。法然はこの年の正月二十五日に没しているので、法然没後一一か月目に願文が記されたことになる。おそらく仏像造立は法然の死後まもなく計画され、法然の周忌に間に合わせようとしたのだろう。とすれば、わずか一一か月の間に五万人近くの結縁者を集めたことになり、専修念仏を支えたネットワークの広がりに改めて驚かされる。そしてそのネットワークは北陸地方にも及んでいた。胎内文書のなかに「越中国百万遍勤修人名」と題されたものがある。これは比丘・入道・俗童・比丘尼・女に分けて合計一五〇〇人余の名が三紙にわたって記されており、さらにそのあとに異筆で二三〇〇名ほどの姓名が書き継がれている。これによって仏像造立に越中の人びとが関与していたことがわかるが、さらに交名の人名を検討すると、北陸の地名を冠した姓をいくつも検出することができる(本史料の異筆部分が越中交名に属するかは判断が難しいが、一応属するものとした。また異筆頭部七〇〇名近くが「源氏等交名」の前部と一致するなど、胎内交名には清書史料が混在しており、表12での人数はあくまで便宜的なものである)。

表12 「玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書」にみえる主な姓

表12 「玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書」にみえる主な姓
 まず越前関係では「三国景光」「三国成近」「三国則包」など三国姓が二八名、「ツルカノ氏」「ツルカノ守包」「ツルカノケサ宗」のように敦賀姓が三名みえる。若狭は「ワカサコクノ氏」が二名、越中関係では「射水恒忠」「射水氏忠」などの射水姓が四人、「佐味景正」「サミノ則安」「サミノ貞房」など佐味姓が四名、「イナミ恒弘」の井波姓が一名、「砥波氏」「トナミノ守包」のように礪波姓が三例みえる。能登・加賀では「能登重則」「能登近守」「ハクイ(羽昨)ノ真俊」「額田氏」「江沼氏」「加賀末実」のように、郡名を名乗る者を確認できる。このほか三嶋(越後)、依智秦・穴太(近江)、一条大宮・宇治・山城(京都・山城)、若江(河内)などともに、淡路・和泉・出雲・伊豆・尾張・甲斐・上野・駿河・丹波・播磨・飛騨などの国名の姓がみえるし、「盲者良慶」「盲僧覚妙」「カタヒノ仲安」のような身障者も登場しており、越中を舞台に諸国から多様な人びとが交流している様子がうかがわれる。同様のことは他の交名についてもいえる。越前では三国(二九人)・敦賀(二人)・道守(二人)や「越前国蓮宝上人」の名がみえるし、若狭では「わかさのうち」「若サノアネカコ氏」がみえる。国名では前出のほかに、安芸・阿波・淡路・伊賀・壱岐・伊勢・因幡・伊予・越後・大隅・近江・讃岐・下総・下野・周防・但馬・日向・三河・美作・美濃・大和などがみえ、畿内近国を中心に東国・九州にまでわたっている。もっとも地名・国名を冠した氏や姓名を名乗っているからといって、この場合、勧進聖が移動したのか、それとも結縁者の方が移動したのか不明なため、分析は慎重を期する必要があるが、それでもおおよその傾向がわかるだろう。当時の活発な交通の展開、そして専修念仏の勧進が北陸地方でも積極的に展開されたことがうかがえる。
 ところで、この交名には興味深い点がもう一つある。「をみのさたつね等交名帳」の最後に「エソ三百七十人」の名前が記されている。中世のエゾを考えるうえで非常に貴重な史料であるが、しかし問題はこのエゾがどの地域の人びとなのかという点にある。エゾの姓が吉弥侯(君子)氏・大鳥氏・鳥取氏・安倍氏など東北地方に勢力をもった氏族であることから、東北エゾ説が唱えられているが、それに対し近江に移住させられた古代俘囚の末裔である可能性も指摘されている。東北エゾ説と近江エゾ説のいずれが妥当なのだろうか。
 大和朝廷に服属した俘囚は、多く君子(吉弥侯)を名乗っていた。ところが朝廷は俘囚を各国に分散して配置したため、君子や君子部(吉弥侯部)などの姓が東北を中心に全国的に分布することになった。とすれば、エゾ交名に君子というエゾ特有の姓がみえるからといって、このエゾを東北のエゾと断定することはできない。しかも平安末期の段階でも、近江の俘囚が君子を名乗っている例があるから(『台記』久安二年十一月十四日条)、彼らを東北のエゾと断定することは困難である。しかし、別の理由から東北エゾ説は支持される。
 三七〇名のエゾ交名のなかで有姓者は三八名いるが、そのうち一五名が君子姓を名乗っている。ところがこの君子姓はエゾ交名以外の一般交名でも一〇名確認することができ、しかもその登場箇所が集中している。四名と六名の君子姓が固まって登場しているのである(『報告書』三二・一九四頁)。つまりエゾ交名以外にも、俘囚の系譜を引く二つの集団が一般交名のなかに混在している。君子姓は交名全体のなかで四名・六名・一五名の三グループ登場するが、同じように君子を名乗りながら、一五名のグループだけがエゾと特定されているのである。これは何を意味していると考えるべきであろうか。
 しかもエゾ交名には一八の姓が登場しており、このエゾが多数の一族からなっていることがわかる。ところが表13のように、紀氏・安倍氏・藤井氏はもとより、鳥取氏・大鳥氏・玉造氏・滋野氏も一般交名に多数登場する。にもかかわらず、エゾ交名の人びとだけがことさらにエゾと特定されているのである。こうした事実は、彼らがエゾと意識される特定空間に住んでいたことを示唆しているだろう。君子姓に即していえば、三グループのうち一五名のグループだけがエゾとされたのは、このグループがエゾの地に居住していたからである。つまり近江などに配置された古代俘囚の末裔は、一般交名のなかにみえる四名・六名の君子氏であり、エゾ交名に登場する一五名の君子氏が東北地方のエゾであった。エゾ交名の「エソ」は東北地域のそれなのである。

表13 「エゾ交名」にみえる姓

表13 「エゾ交名」にみえる姓
 では聖たちは、どのようなルートでエゾの人びとに勧進したのか。わずか一一か月の間に勧進が行なわれたことからすれば当然、海上交通が思い浮かぶだろう。実際、胎内交名全体で三国姓が五七名、敦賀姓が五名、出雲姓が三六名登場するなど、日本海交通路の結節点ともいうべき地名が登場する。しかも胎内交名には「日本光弘」など六例の日本氏が検出できるが、この「日本」が、「羽賀寺縁起」(資9 羽賀寺文書五五・五六号)や説経節「さんせう大夫」(山椒大夫)にみえる「奥州十三湊日之本将軍」「奥州日の本の将軍」の日本である可能性もある。以上からすれば、日本海交通路の活性化のなかで、専修念仏がエゾの地まで進出していったとみてよいのではないだろうか。越前・若狭はその媒介地であった。



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