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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    三 越前・若狭の専修念仏
      北陸道と専修念仏
 鎌倉期は、顕密仏教とは異質な新たな思想運動が展開した時代でもある。その一つが法然による専修念仏の提唱であり、やがて幸西・親鸞や一遍を生むなど、中世の宗教界に大きな影響を与えた。法然は安元元年(一一七五)に廻心し、新たに浄土宗を立てて専修念仏の教化に努めた。当時、顕密仏教は「現世安穏・後世善処」を標榜し、さまざまな善根を積み重ねることによって往生できると説いていた。それに対し法然は諸行往生を否定し、法華経読誦や造寺造塔・田畠寄進など念仏以外のすべての行為から往生行としての価値を剥奪し、それらいっさいを無価値と断じた。その結果、持戒の高僧や寺社を嘲笑する風潮が急速に広まり、顕密仏教の権威を大きく揺さぶった。そこで朝廷は顕密仏教の要請を容れて建永二年(一二〇七)、仏法を妨げる「天魔」と断じて専修念仏を禁止し、法然とその弟子を流罪・死刑に処した。そしてこれ以後も弾圧は頻繁に繰り返された。
 こうした状況にもかかわらず、専修念仏は北陸地方に着実に浸透していった。元久二年(一二〇五)に専修念仏弾圧を要請した興福寺奏状によれば、専修念仏の教えが「北陸・東海等の諸国」でさかんに唱えられていると述べているし、法然は最晩年に「越中国光明房へつかはす御返事」を出している。このように越中など北陸地方で専修念仏は活発に展開していた。顕密仏教の拠点たる畿内よりも、その周辺地域の方が寺社勢力の矛盾が露呈しやすく、その分、反顕密仏教の主張が受容されやすかったのであろう(なお『漢語燈録』などに「遣北陸道書状」を収めるが、これは鎌倉後期ごろの偽撰である)。
 では専修念仏の展開は、現実の地域社会のなかでどのような意味をもっていたのだろうか。鎌倉後期の『沙石集』(巻一―一〇)に次のような話がみえている。
 鎮西に浄土宗に造詣の深い地頭がいた。あるとき彼は領内の神田を検注して、台帳に記載のない「余田」を没収しようとした。ところが神社側は強硬に反対して、田地を返還しないなら呪咀すると脅した。地頭は「呪咀するのなら、やってみよ。念仏者たる者、呪咀や神罰なんぞ恐れはしない。弥陀の光明に守られている私を、神とても罰せようはずがないからだ」とうそぶいた。そこで神社側が呪咀したところ、地頭は間もなく「悪キ病」となって狂い死にし、その母親や地頭の息子までもが相ついで病死した。
 まずこの話で興味深いのは、この神の性格である。その神は自ら「十一面ノ化身」と名乗っているし、地頭の母親は「白山権現」に陳謝している。この神社が十一面観音を本地とする白山社であることは明白であろう。つまりこの説話は、鎮西を舞台とするものではあるが、専修念仏を信仰する地頭と白山社との抗争の話なのである。とすれば白山信仰の強固な北陸地域に専修念仏が展開していくなかで、同様の紛争は日常的に繰り返されたはずである。ちなみに蓮如が吉崎で布教したさい、彼は信者に諸宗誹謗を禁じたが、その諸宗とは具体的には越中・加賀の立山・白山と「越前ナラバ平泉寺・豊原寺」であった(「蓮如御文」文明五年九月下旬)。
 第二にこの説話の素材は、隠田没収という経済的利権をめぐる地頭と神社側との抗争である。ところがこの話では、こうした経済的対立がそのままストレートに表現されるのではなく、宗教的対立の形をとっている。神社側は利権の維持のために呪咀という宗教的暴力に訴えたし、地頭側は阿弥陀信仰によってその呪咀をはねのけようとした。そして実際、中世の神社や顕密寺院は、仏罰・神罰・呪咀という宗教的暴力によって自らの世俗的権益を守ろうとしていた。高野山金剛峰寺は年貢を未進した百姓を四季の祈で呪咀したし、興福寺も坂井郡坪江郷の本役未進に対し、「厳重の調伏」を行なっている(資2 春日大社文書五号)。山林伐採を咎められた大野郡井野部郷の百姓たちは「神の御事、おそろしく存じ候」と語っているし(資2 醍醐寺文書一五四号)、また三方郡前河荘の地頭である殖野(上野)胤時は、日吉社と争って濫訴をしたため、夭逝して子孫が絶えたという(資2 斉民要術紙背文書二号)。『沙石集』に描かれた話は単なる説話なのではなく、中世社会の実相であった。
 とすれば、地頭であれ百姓であれ、世俗社会のなかで宗教勢力と対立・葛藤を余儀なくされた人びとは、必然的に他の宗教を求めざるをえない。こうして専修念仏が社会に浸透していった。専修念仏の社会的浸透の背後には、世俗的現実的世界における対立と葛藤があった。



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