寛喜二年に閑居したところは京都郊外深草の極楽寺別院の安養院であった。この安養院で翌三年八月十五日、道元の禅を如実に示した「弁道話」を撰述している。
道元は如浄から伝えた仏法を正伝の仏法と称したが、それは只管打坐の禅風であった。坐禅を、悟るための手段にはしなかった。坐禅それ自体に絶対の価値を見出し、坐禅修行すること以外に悟りはないとし、「修証一如」、すなわち坐禅(修)が悟り(証)であるとする。
道元の在俗男女に対する態度は、「弁道話」に「本郷にかへりし、すなわち弘法救生をおもひとせり」と述べており、帰国後は法を広め、衆生を救済することを念頭に置いていたことが知られる。ゆえに坐禅修行は「男女貴賎」にかかわらず修することができるものであることを明確に示している。
このころになると道元の周辺には、近衛家や藤原教家(弘誓院)・正覚禅尼などの助力者が現われたようである。このうち近衛家は、近衛基通と道元の父とされる久我通親とがともに抗幕派として政治的に深い関係にあったとされる。また建長五年(一二五三)の近衛家の所領目録からは(「近衛家文書」)、冷泉宮領の相模国波多野(神奈川県秦野市)の地を管理したことが知られるが、この波多野はのちに道元の大檀越となる波多野氏の本貫の地であった。藤原家と密接な関係にあった寺院のなかには山階寺や法性寺などをはじめとして多武峰や極楽寺も存在し、近衛家とも無関係ではなかったようで、道元が深草の極楽寺の別院である安養院に居住するようになったのも、近衛氏との関係からではなかったかと考えられている。
藤原教家は道元の母方の関係者であったようである(『尊卑分脈』、「山州名跡志」一八)。道元はこの藤原教家や正覚禅尼などの助力により、天福元年ころに観音導利院興聖宝林禅寺を深草の極楽寺跡に開いている。そしてこの年の夏に『正法眼蔵』(摩訶般若波羅密の巻)を示し、以後同書の示衆・撰述を進めていくことになる。
文暦元年の冬、大日房能忍門下で仏地覚晏の門弟であった懐奘が参じてきている。嘉禎二年(一二三六)十月に僧堂を開くと、前述のように仁治二年春には越前波着寺の懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて道元のもとに入っている。大日房門下の集団での参入であった。
道元僧団は次第に大きくなっていった。やがて京都においても説法を行なうようになり、仁治三年十二月十七日には六波羅の波多野義重のもとで『正法眼蔵』(全機の巻)を説き、翌寛元元年四月二十九日には六波羅密寺で『正法眼蔵』(古仏心の巻)を説いている。 |