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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      道元の越前入国
 天台宗の教学を集大成したといわれる「渓嵐拾葉集」(一三四七年)には、仏法房(道元)が後嵯峨天皇のときに「護国正法義」を著して奏聞に及んだが、佐の法師が、道元の説は仏教に拠ったものではないので沙汰に及ぶようなものではないとの判定を下し、極楽寺が破却されたという記事を掲載している。これによれば、道元が「護国正法義」を著したということになり、その内容が原因で極楽寺が破却されたというのである。その内容は未詳であるが、栄西の「興禅護国論」を意識してのものであったと思われる。では「護国正法義」が著述されたのはいつごろなのであろうか。
写真79 道元画像

写真79 道元画像

 暦仁二年(一二三九)四月二十五日に撰述された『正法眼蔵』(重雲堂式の巻)の奥書に「観音導利興聖護国寺開闢沙門道元示」とある。「護国」という文字がみられるのは、この巻だけである。「護国」ということが強く意識されたときであろうか。この暦仁二年四月からそう遠くない時期で、かつ後嵯峨天皇の即位後で、『正法眼蔵』の撰述に間がある時期が「護国正法義」の著された時期ということになろう。それは、仁治三年六月二日の『正法眼蔵』(光明の巻)以後、九月九日の『正法眼蔵』(身心学道の巻)撰述の間ということになると考えられている。
 しかし、道元が越前に入居するのはちょうど一年後の寛元元年の七月である。「護国正法義」の撰述からすると間があきすぎているとする見方から、極楽寺破却そして道元の越前入居の直接の原因は、仁治三年十二月十七日の六波羅密寺そばの波多野義重邸と翌寛元元年四月二十九日の六波羅密寺での『正法眼蔵』の説示ではなかったかとする説もある。
 いずれにしても、波多野氏がのちに永平寺における檀越となっているところをみると、六波羅での道元の説法は入越と深くかかわっているとみてよかろう。天台別院であり、多くの人びとの信仰を集めていた六波羅密寺での説示が比叡山の僧徒を怒らせ、興聖寺が破却されるという事態になってしまったものと思われる。六波羅密寺での説示は古仏心の巻であり、その巻頭では、禅宗の系図が釈迦以来正しく伝わってきたことを示すものであるだけに、比叡山側を刺激するものであったのかもしれない。
 それにしても、道元の越前入国は急であった。『正法眼蔵』の著述・説示は、天福元年夏に説きはじめて仁治三年十二月までの九年半に四二巻に及んでいたが、仁治四年に入っても正月六日に都機、三月十日に空華、四月二十九日に古仏心、五月五日に菩提薩四接法、七月七日に葛藤の各巻を示している。古仏心の巻以外は興聖寺での説示である。七月七日に同寺で説示して一か月を経ない閏七月一日には、すでに越前大野郡の禅師峰において三界唯一心の巻を示しているのである。深草興聖寺を義準に頼み、七月のうちに越前に入ったことになる。興聖寺の破却があったとすれば、説示に間がある五月五日から七月七日の間であったものと推定される。
 さて、道元の越前入国の理由であるが、直接的には興聖寺が破却されるということがあったかもしれないが、それのみではなかったようである。道元はすでに師の如浄から深山幽谷に居して修行するようにといわれており(「宝慶記」)、深山にての修行のことは『正法眼蔵』(重雲堂式の巻)のなかにもうかがえるので、道元の心の底には深山幽谷での修行への思いがあったものと思われる。それが興聖寺の破却や、比叡山や建仁寺との関係の悪化、あるいは大規模な伽藍をそなえた東福寺の建立などのこととあいまって、越前入居ということに傾いていったものと思われるのである。



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