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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      建仁寺から深草へ
 嘉禄三年(一二二七)二八歳の秋、如浄より嗣書(法が伝えられたことを証明する書)を受け、帰国することになった。同年八月ごろ出帆し、肥後国の川尻に帰着し(薩摩国坊津に帰着したとする説もある)、京都建仁寺に入った。この年、早くも「普勧坐禅儀」(『曹洞宗全書宗源』上)を撰述している。なお永平寺所蔵の道元真筆本(国宝)の奥書は天福元年(一二三三)の撰述となっているが、まもなく撰述する「弁道話」に「その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄のころ撰集せし普勧坐禅儀に依行すべし」とあり、嘉禄三年は十二月十日に安貞元年と改元されていることを考えると、嘉禄三年に撰述したことになる。したがって永平寺所蔵の同書は、六年後に深草の観音導利院興聖寺を開創したおりに清書したものである。この「普勧坐禅儀」は道元が主張する「正伝の仏法」の坐禅を一般に広め勧めようとするもので、いわゆる教学の仏法ではなく、仏教の原点に帰り釈迦の正覚に直結しようとするものであったといえる。同書は道元の基本的立場を明らかにするものであった。建仁寺にいた道元のもとには、法を問う者も少なくなかったようである(「正法眼蔵随聞記」)。
写真77 「普勧坐禅儀」(道元筆、部分)

写真77 「普勧坐禅儀」(道元筆、部分)

 しかし寛喜二年の三一歳のころ、建仁寺を出て山城深草に閑居した。建仁寺は道元にとって、次第に参禅者に指導できるような環境ではなくなっていたようである。大日房能忍の法孫であった懐奘が参随を願ったときに、別のところに草庵を結ぼうと思うのでそのときに訪ねて来るようにと言わざるをえなかったほどであった(「伝光録」)。それに、当時の建仁寺は腐敗し堕落していたようである(「正法眼蔵随聞記」)。そして道元の建仁寺における房舎は破棄された(「京都御所東山御文庫記録」)。教禅兼修の建仁寺で純粋禅を説いたため、比叡山僧の迫害があったものと考えられる。



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