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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      道元の入宋
 永平寺を開いた道元の伝記としては、道元から四世で能登総持寺の開山の瑩山紹瑾が中心となって編集したとされる「元祖孤雲徹通三大尊行状記」(『曹洞宗全書史伝』上)や、それを整備して応永年間(一三九四〜一四二八)に編集されたという「永平寺三祖行業記」、永平寺十四世建撕(一四六八〜七四まで永平寺住持)が著わした「永平開山道元禅師行状 建撕記」(以下「建撕記」と略)、また瑩山紹瑾が歴代の祖の伝記を著わした「伝光録」(『曹洞宗全書史伝』下)のなかの「第五十一祖、永平元和尚」の項などがある。これらの伝記を中心に道元の行歴を略記してみたいと思う。
 道元は、頼朝が幕府を開いて八年後の正治二年(一二〇〇)に京都で生まれている。正月二日の誕生とされる。父は村上源氏の久我通親、母は松殿藤原基房の娘の伊子といわれている。ただし実父はこれまで育父とされてきた通親の子道具とする説も有力となってきているが、母である藤原基房の娘との関係もあっていまだ確定的とはいえないので、ここでは父は通親、母は基房の娘伊子と考えておきたい。道元誕生の地は未詳であるが、母方の松殿の宇治木幡の山荘ではないかといわれている。父である源通親は当時土御門上皇の外祖父であり、頼朝をして「手にあまる」と怖れさせるほどの政界での実力者であった(「愚管抄」)。しかし道元はこの父を三歳のときに失い、母も八歳のときに失っている。母も初めは木曾義仲のもとに嫁がされ、そののち源通親の側室にされたという説もあるほどの薄幸の人であったようである。
 母方の伯父である師家は、道元を官職に就かせるために養子とし元服させようとした。しかし道元は一三歳の春のある夜、松殿の山荘を去り比叡山の麓に母方の叔父良観法師(「永平寺三祖行業記」「建撕記」には良顕とみえ、『尊卑分脈』には良観とある)の庵を訪ねた。良観は道元を比叡山横川の首楞厳院般若谷の千光房に住まわせることにしている。この般若谷は、栄西の弟子でのちに道元とともに入宋することになる明全が参学したところであり、道元より年長であるがのちに弟子となる懐奘も参学した場所であった。
 建保元年(一二一三)一四歳の四月九日、天台座主公円について得度し、翌日戒檀院において菩薩戒を受け、仏法房道元と名乗った。比叡山において天台教学を学習するに及び、大きな疑問が生じたという。それは「本来本法性、天然自性身」という、一切の衆生には本来仏性がそなわっており人は本来仏であるとする天台宗などの基本的な考え方に対して、道元は、元来仏であるならばこれまでの諸仏諸祖はなにゆえに修行する必要があることを説いてきたのであるかという疑問をもったのである。天台教学からみれば幼稚にさえみえる疑問であったが、この基本的な問いに答えてくれる人物はいなかった。
 当時、延暦寺・興福寺・園城寺(三井寺)などの寺院の間では争いが生じており、そのために公円は辞任するにいたる。道元も一五歳のころ比叡山を去り、園城寺の座主公胤を訪ね、先の疑問を問うたが公胤は答えず、禅宗の存在を教えた。道元はその指示により京都の建仁寺を訪ね、栄西が伝えた臨済宗黄竜派の禅にふれることになった。以後、道元は建仁寺や園城寺において学習を続けた。
 栄西は建保三年六月五日に鎌倉の寿福寺で没しており(一説には七月五日建仁寺にて没)、道元が栄西に会うことができたかどうかは微妙であるが、おそらく会うことはできなかったのではないかと考えられる。栄西なきあとの建仁寺においては、栄西の弟子の明全について参禅した。
 貞応二年(一二二三)二四歳の二月二十二日、明全とともに京都を出発し、博多から船出して四月には中国の明州慶元府(寧波)に到着した。同年七月に天童山景徳寺に入り、臨済宗大恵派の無際了派に参じる。翌三年冬に無際が死去したので、天童山を去り諸方を歴訪したが、満足できなかった。ついに帰国しかけたが、以前に耳にした如浄という禅僧が天童山の住持となっていたので参禅することにした。如浄に参じてまもなく、ともに入宋した明全が亡くなっている。
写真76 六波羅過所写(永平寺文書)

写真76 六波羅過所写(永平寺文書)




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