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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      栄西と能忍とその門下
 道元の生誕(一二〇〇年)前後は、禅宗史からみると大きな画期であった。栄西と能忍の出現である。栄西はまず天台宗の教学を学んだのち入宋し、臨済禅を学び、建久二年(一一九一)に帰国した。「興禅護国論」を著わし、建仁二年(一二〇二)には将軍頼家の援助を受けて京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の寺として建仁寺を建立している。建永元年(一二〇六)、重源の跡を嗣いで東大寺の勧進職となり、復興に尽力している。栄西の勧進聖的性格がうかがわれる。
 能忍は房号を大日房という。禅宗に関心をもち、独力で悟りを開き、摂津水田(大阪府吹田市)に三宝寺を開創している。しかし無師独悟を批判されると、文治五年(一一八九)に弟子二人を入宋させ阿育王山の拙庵徳光のもとに遣わし、嗣法を許されている。能忍は「在京上人能忍」と称されており(『百練抄』)、京都での布教活動を行なっていたようである。能忍は拙庵から弟子を通じて受けた初祖達磨から六祖慧能(禅が中国でさかんになる基礎を作った人物)にいたる六人の舎利をもとに達磨宗を強調し、それまでの釈迦の舎利信仰に強い影響を与えたとも考えられている。建久五年には栄西とともに達磨宗の布教を停止させられているが、禅僧としての活動が栄西以上であったことは、日蓮が「開目抄」のなかで念仏宗の法然に並べて禅宗の大日(能忍)を挙げていることからもうかがえる。 
図15 達磨宗相承関係系図

図15 達磨宗相承関係系図

 能忍の弟子である仏地覚晏は、多武峰(奈良県桜井市)に移る以前は京都東山にいた。弟子の懐鑑が東山で覚晏から血脈を受けている(「永平寺室中聞書」)。しかし多武峰は安貞二年(一二二八)に興福寺衆徒によって焼打ちに遭い、覚晏門下も離散ということになったようである。懐鑑は越前足羽郡波着寺に移りその拠点とした。多武峰にいた覚晏に参じた懐奘は帰国して建仁寺にいた道元を訪ね、文暦元年(一二三四)には宇治興聖寺の道元の門弟となっており、仁治二年(一二四一)には、越前波着寺にいた懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて上洛し、やはり道元の門下に入っている。なお波着寺は足羽川流域の稲津保にあるが、この稲津保出身でのちに永平寺三世となる義介が、波着寺にいた懐鑑のもとで寛喜三年(一二三一)ごろに出家している。そして、この達磨宗の相承物は義介から瑩山紹瑾へと伝播されていった。また越前大野郡宝慶寺開山の寂円の弟子であり、のちに永平寺五世となる義雲も系字の「義」が付されており、波着寺で出家したのではないかと考えられる。義雲は宝慶寺の檀越であった伊自良氏の出身と推定されている。
 いずれにしても達磨宗には、東山・多武峰・越前波着寺を経て道元の門下に入っていった一派と、摂津吹田の三宝寺を中心に応仁年間(一四六七〜六九)まで存続した一派が存在したのである。



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