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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      鎌倉期における禅宗の受容と展開
 道元についてみる前に、日本の禅宗の流れについて概観しておこう。入唐した学生・学問僧(三〇〇年間で一四九人)に比べると入宋僧(一七〇年間で一〇九人)・入元僧(一六〇年間で二二二人)の数ははるかに多い。入唐僧たちは、国家の留学生として求法の責務を負わされていた。ところが然や成尋らの北宋時代の渡海は、国家からの派遣ではなく私的なもので、仏蹟巡礼が目的であった。
 平安末から鎌倉期に渡海した僧、すなわち入宋僧は次のように三分類できるといわれている。1然などの延長線上にあるもので重源や栄西などのように早く入宋した人びとで仏蹟巡礼を目的とするもの、2俊や月翁智鏡などのように律宗を伝えるためのもの、3禅宗を求めてのもの、以上の三分類である。栄西は天台宗に活力を与えるために禅を用いようとした人物であるが、その二回目の入宋でさえ、宋より「天竺」に渡り仏蹟を巡礼するのが最終目的であったことはよく知られている。しかし、その後の入宋僧の大部分は3である。
 また日本の禅宗界は、中国禅を能動的に求めた時期から受動的に受容された時期へと移っていったとみることもできる。鎌倉前期には道元に代表されるような求法伝法を目的とした入宋僧が多かった。しかし後期以降は次第に文化摂取のための入宋・入元へと変化し、滞在年数も長くなっている。そしてこの時期には多くの優秀な中国禅僧が渡来したといわれており、日本の禅宗にとっては受動的受容の時期ということになる。
 鎌倉前期の禅宗界をみると、栄西が建立した京都建仁寺は真言・止観・禅の三宗を兼ねそなえた比叡山の末寺として存在し、栄西自身は鎌倉幕府のなかでは台密僧として活動しており、彼の門弟たちも同様であった。中国禅宗界を代表する無準師範の法を嗣いで帰国した円爾弁円は、九条道家の外護を受けて京都東山に本格的な禅寺の東福寺を建立しているが、同寺も真言・天台・禅の三宗を修する道場として出発したとされる。唱えた禅も顕密禅と称されるものであった。なおこの時期に、只管打坐(ただひたすら打ちすわる)という純粋禅を唱えていた道元は越前に赴くことになる。道元が越前に入ることを決断した要因の一つに、圧倒的な大伽藍である東福寺の建立を挙げる説があるほどである。
 このような日本の禅宗界の兼修禅的・顕密禅的な傾向を変化させたのは、寛元四年(一二四六)に渡来した蘭渓道隆であった。彼は宋朝風の純粋禅をもたらしたのである。彼が開山となった鎌倉の建長寺は、宋朝風の建築様式で建立された。この蘭渓が京都の建仁寺の住持となるに及んで、純粋禅は京都にももたらされた。武士のなかにも北条時頼のように、禅に深い理解を示す者も出てきた。ただし兀菴普寧は時頼が没すると、禅の理解者なしとして帰国した。
写真75 蘭渓道隆画像

写真75 蘭渓道隆画像

 北条時宗は、日本においても著名であった無準師範の高弟の環渓あたりを招こうとしたが、実際には法弟の無学祖元が弘安二年(一二七九)に渡来した。蘭渓・無学ともに元の圧迫を避けての渡来という感じが強く、必ずしも一流の人物ではなかったようであるが、両者により宋朝風の純粋禅がもたらされた。
 元は再度の日本侵略に失敗すると、属国となるよう勧誘するために一山一寧という禅僧を送り込んできた。北条貞時はいっとき彼をとらえるが、のちには建長寺の住持としている。以後は日本からの招きに応じて渡来した人物が多く、東里弘会・東明慧日・霊山道陰などが挙げられる。このうち東明慧日は曹洞宗宏智派を伝えた人物である。彼およびのちに渡来した東陵永の法孫は、臨済宗で占められた五山派のなかでは珍しく曹洞宗として存在し、朝倉氏の外護を受けて越前にも寺院を有した(六章二節二参照)。
 鎌倉最末期になると、清拙正澄や明極楚俊・竺仙梵僊などの一流の禅僧が招きに応じて渡来してくるようになる。明極は当時の入元僧の多くが彼のもとを訪れるほどの人物であり、竺仙も入元僧であれば一度は訪れるという古林清茂の高弟であった。
 これ以降は渡来僧は途絶え、わずかに曹洞宗宏智派の東陵永が観応二年(一三五一)に渡来したに過ぎない。また日本の禅の水準も高まり、渡海してまで中国禅林から学ぼうとする者は少なくなっていた。そうしたなか鎌倉末期から南北朝期にかけて、渡海の経験のない、密教的要素を禅のなかに融合させた禅風をもつ夢窓疎石が活躍するようになり、その門派が勢力をもつようになっていったのである。
 禅宗の展開をみる場合、臨済宗と曹洞宗に分けてみるよりも、宗派にかかわらず京都・鎌倉の五山を中心に展開した五山派(叢林)と地方に発展した林下(または林下禅林)とに分けて把握すべきであるという見解がある。そして中央から地方への伝播は三波に分けてとらえられている。まず第一波には越前永平寺開山の道元をはじめ、臨済宗の紀伊国由良西方寺(のちの興国寺)の開山である無本覚心、陸奥国松島円福寺の性才法心、山城国勝林寺の天祐思順などがおり、彼らは中国禅を積極的に求め、地方に隠遁し、教団形成には否定的であったという。このうち道元や天祐を除くほとんどの人びとは密教的性格をもっていた。彼らの活躍した時期は鎌倉前期であった。次に第二波は五山派寺院の門弟らで、上層の地方豪族の保護を受けて各地に寺院を建立した人びとである。それらの寺院は五山寺院の末寺となっていった。第三波には中国の中峰明本に参じて念仏禅を伝えた人びとが多く、隠遁的であった。近江国永源寺の寂室元光、常陸国法雲寺の復庵宗己、筑前国高源寺の遠渓祖雄、甲斐国天目山棲雲寺の業海本浄などで、南北朝前期から中期にかけての人たちである。またこの時期には、さまざまな理由で五山およびその周辺の寺院から地方へ出た人びともおり、一派を別立する者や、各地の他派へ流入する者などがいたのである。こうしたなかで、教団否定的であった各派も教団を形成するようになっていった。永平寺道元下の法孫のなかにも、永平寺から加賀大乗寺へ出た徹通義介や、能登永光寺・総持寺を開いた瑩山紹瑾などが登場するに及んで、曹洞宗は大規模な教団へと変化していった。
 五山派に属することなく各地に展開した林下禅林を代表するものには、永平寺道元下の曹洞宗や臨済宗の京都大徳寺・妙心寺の門流などが挙げられる。なお、曹洞宗でも宏智派は五山叢林のなかにあり、朝倉氏の保護を受けて越前にも進出してくることになるのである(六章二節二参照)。



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