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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      日本禅宗の成立
 一般に栄西が中国より禅を伝えたことをもって日本禅宗の出発点とするが、「元亨釈書」や「延宝伝燈録」などの僧伝や「興禅記」(無象静照著)・「将来目録」(入唐求法者が持ち帰った書物等の目録)などの史料から、鎌倉期以前にも禅を日本に伝えた人物が存在したことが知られる。まず飛鳥朝期に道照(六二九〜七〇〇)が入唐し、法相宗や成実宗とともに禅を学び、元興寺に禅院を設けている。奈良期には唐僧の道が天平八年(七三六)に来日し、大和大安寺に禅院を設け、門弟の行表に法を伝えている。北宗禅というものであった。平安期に入ると最澄が入唐して円・密・禅・戒の四宗を伝えているが、彼は入唐する前にすでに行表から北宗禅を学んでいた。唐からは牛頭禅と称されるものを伝えた。空海にも「禅宗秘法記」という著述があったといい、在唐時に禅を学んだものと思われる。比叡山では円仁も入唐のおりに禅を学び禅院を設けており、円珍は代表的な禅籍である「六祖法宝檀経」を将来している。
 さらに平安期には唐僧の義空が南宗禅(以降、日本に入ってくる禅宗はこの南宗禅に属する)を伝えている。日本側の招きに応じたものであったが、数年にして帰国した。また日本から入唐した瓦屋能光(九三三年ころ没)は中国曹洞宗の祖である洞山良价の弟子となり、中国で没している。永延元年(九八七)に帰国した三論宗の然は宋朝禅を学び、禅宗の宣揚を朝廷に奏請したが許可されなかった。
 平安末期に禅を伝えた人物に覚阿がいる。覚阿は入宋し、南宗禅のなかの臨済宗楊岐派の禅を伝えて、安元元年(一一七五)に帰国して比叡山に入った。高倉天皇の問法を受けたが、笛を吹くのみであったという。
 このように、平安期以前において中国の禅宗と関わりをもった僧侶たちが何人かいたが、法孫を残さなかったために、これまでの禅宗史上ではあまり重んじられなかった。しかし覚阿の伝禅などは、後述する大日房能忍におおいに影響を与えることになったのではないかと考えられる。
 さて、中国からの伝禅という視点のみでは、鎌倉期以降なにゆえに禅宗が受容されていったかが理解できない。その背景には、中国禅を受容できるだけの基盤が日本のなかに存在したとみなければならないとする新しい視点が提示されている。それは、「往生伝」などの説話文学のなかに登場する禅定を修する僧や行的な僧に見出すことができる。また、奈良期における山林修行僧や民間布教僧のなかに位置した看病禅師や、持戒・看病の能力をもって国家に登用されていった内供奉十禅師の存在、平安期には寺院内に置かれた十禅師から四種三昧の修行をもっぱらにし臨終往生への助勢(葬祭)を行なう禅衆へと変化していった事実にも注目する必要がある。中世における禅僧たちがもっていた葬祭や祈の能力は、古代の「禅師」たちがもっていたものであったとするのである。
 さらに、禅的なものを古代からの山林修行の伝統のなかにも見出すことができるとする説もある。つまり、古代仏教のなかから中世における浄土教の展開や法華宗・律宗などの展開のみをみるのではなく、古代の行的仏教のなかからは禅宗の展開もみなければならないという視点である。これらのことを考えると、入宋して禅を伝えた道元についてみるとき、中国からの伝禅という視点とともに、道元の入宋にいたるまでと帰国後の展開、特に道元のもとに参じた人びととの関連においては、古代仏教からの禅的な伝統や行的仏教の系譜などからの影響について考える視点が必要となってくる。



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