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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    一 越前・若越の顕密寺社の展開
      顕密仏教と浄土教
 顕密仏教は五穀豊穣・鎮護国家といった現世の祈りによって、平和と繁栄を実現しようとした。しかしそれだけではない。顕密仏教は来世の祈りについても機能を果たしていた。元来、浄土教は顕密仏教の内部から生み出されてきたもので、念仏や口称による極楽往生がさかんに説かれていた。平安期の延暦寺の教学書には、「未断惑の凡夫も念仏の力によって往生を得る也」(「阿弥陀新十疑」)、「十悪五逆の人も臨終の十念の力にて彼国(極楽)に生まることを得る也、況や女人と雖も宿善開発せば、何ぞ安養界(極楽)に生まれざらんや」(「浄土厳飾抄」)とあり、凡夫や女性の念仏往生はもちろんのこと、十悪や五逆罪を犯した悪人ですら称名念仏によって極楽往生できると説かれていた。しかもこうした思潮は世俗社会にも浸透しており、平安末には「弥陀の誓ひぞ頼もしき、十悪五逆の人なれど、一度御名を称ふれば、来迎引接疑はず」「竜女はほとけに成りにけり、などか、われらも成らざらん、五障の雲こそ厚くとも、如来月輪隠されじ」といった今様が謡われていた(『梁塵秘抄』)。
 越前・若狭で顕密仏教系の念仏信仰がどの程度普及していたかは定かではない。しかし延暦寺常寿院領の三方郡山西郷長法寺には念仏田があったし(資8 園林寺文書一六号)、丹生郡大谷寺では毎年七月十四日の盆に「十方檀那・三界万霊のため」に阿弥陀経の読経が行なわれて念仏・陀羅尼が唱えられている(資5 越知神社文書二六号)。坂井郡河口荘には光明寺の不断念仏田のほか、春日社念仏堂田・八幡宮念仏堂田・神宮寺阿弥陀田などがあったし(資4 春日神社文書一号)、丹生郡剣太神宮寺(織田寺)では地蔵講が行なわれていた。南北朝期に越前で真宗や時衆が一定の広がりを確保するが(六章二節三参照)、その素地にはこうした顕密系の阿弥陀信仰の展開があった。白山の弥陀・観音は衆生救済のために地獄にいるといわれており(『沙石集』)、白山信仰もまた来世信仰を包摂するものへと飛躍している。
 田畠の寄進によって極楽往生を祈る例も数多い。大谷寺では嘉元四年(一三〇六)に藤原兼範が二段の田を弘法大師御影供料田に寄進して父母の命日の勤行を依頼しているし、現世・後世のために「国内の檀那、郡中の施主」に対し法華八講の勧進も行なわれた(資5 越知神社文書六・一〇号)。正中二年(一三二五)には尼了心が亡夫の追善と自分の後生菩提のため田地を遠敷郡神宮寺へ寄進しているし(資9 神宮寺文書五号)、明通寺でも親の追善や「現前息災・後生善処」のため田地寄進が行なわれていたほか、十悪五逆を犯した悪人の救済すら説いている(資9 明通寺文書一〇・一三・三〇・四一号)。
 このほか「二親得脱并びに自身の往生極楽」のために如法経米を寄進した事例も数多く、明通寺や羽賀寺には厖大な寄進札が残っている(『小浜市史』金石文編)。このなかには逆修と明示したものも多い。逆修は生前のうちに死後の冥福を願って仏事を行なうもので、死後の追善よりも七倍の功徳があるとされた。また如法経は一般に法華経をさし、その写経や読経を依頼するために米銭の寄進が行なわれた。法華経を信じて念仏を唱えるというのが、中世人の典型的な来世信仰のありようであった。明通寺や羽賀寺だけでなく顕密寺社の多くが民衆の来世信仰を獲得しようとしたさい、如法経信仰は非常に有効であった。
写真74 羽賀寺寄進札

写真74 羽賀寺寄進札

 もちろん極楽往生のため田畠を寄進することは、顕密寺社の場合だけではない。敦賀西福寺や小浜浄土寺などのように、浄土宗・浄土真宗・時宗の寺院でも同様の例を確認することができる。この点で両者は共通の基盤に立っていたといえよう。ただし現世の祈りを基軸とする顕密寺社の場合、触穢の問題から、現世祈にかかわる僧侶は葬送の導師を禁じられるなど(資9 羽賀寺文書二七号)、来世の祈りにはさまざまな制約があった。その結果、来世の祈りを基軸とする新たな宗派が登場してきたとき、顕密寺社はこの分野から次第に後退してゆかなければならなかったのである。



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