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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    一 越前・若越の顕密寺社の展開
      白山信仰
 越前では、若狭のように国衙を中核とする祈秩序を展望しうる史料に恵まれていない。そこで、越前で強い力をふるった平泉寺を中心とする白山信仰についてみておこう。 
写真71 大野郡白山社(勝山市平泉寺)

写真71 大野郡白山社(勝山市平泉寺)

 白山信仰そのものは原始的な山岳信仰に由来するが、平安初期の密教の展開のなかでそれと習合していくこととなる。『白山之記』によれば、天長九年(八三二)には白山に登拝する加賀・越前・美濃の三馬場が開けていたとする。ほぼこのころに宗叡(八〇九〜八四)が越前白山で苦行を行なっており(『三代実録』元慶八年三月二十六日条)、九世紀初頭に越前馬場が成立していたことは確実である。また十一世紀中ごろに成立した『法華験記』には、立山・白山などの霊所で祈願した越中の海運法師の説話や泰澄伝承が登場しているし、天喜年間(一〇五三〜五八)には日泰上人が越前白山の竜池の水を汲んだという。こうした密教験者の活動のなかで、白山の山岳信仰は仏教と習合し、やがて本地垂迹説によって教理的に体系化されていった。しかもそのさい、白山での験者の修行の場はほとんどが「越前白山」と記されており、白山信仰の仏教化は三馬場のなかでも越前馬場によって主導された。
 長寛三年(一一六五)ごろに成立した『白山之記』によれば、白山は次のような構成となっている。まず白山の最高峰である御前峰には白山妙理大菩薩を、その北の大汝峰には高祖太男知大明神、南の別山には別山大行事を祀っており、それぞれの本地は十一面観音・阿弥陀・聖観音とされている。またそれぞれの山上には宝殿が設けられており、末代上人の勧進によって鳥羽院や越前国足羽の住人の願となる鰐口や錫杖が安置された。末代は富士上人とも号し、富士山に数百回登山して山上に大日寺を構えた験者で、鳥羽院の信任厚い人物である(『本朝世紀』久安五年四月十六日条)。末代は、白山の宝殿に鰐口や錫杖を奉納して白山信仰の仏教化に積極的に関わるとともに、鳥羽院と白山とを結びつけた人物でもあった。
 白山信仰の越前での中心が、「平清水」「白山社」「白山平泉寺」などとよばれた平泉寺である。大治五年(一一三〇)前後に鳥羽院は、院宣によってその側近である園城寺の覚宗を検校に任じて社務を執行させた。ほぼ同時期、鳥羽院は加賀馬場の白山宮でも、神主職の上に検校職を設置して側近の信縁を補任している。鳥羽院が末代を介して白山に仏具を奉納したことと、平泉寺や加賀白山宮に積極的に介入したこととは、密接な連関があろう。
 しかし、事態は必ずしも鳥羽院の思惑どおりには進まなかった。久安三年(一一四七)、加賀白山宮は延暦寺の末寺となって国衙・院権力のもとから自立しようとしたし、平泉寺も同年に住僧らが園城寺長吏覚宗の支配の過酷さに反発して自らを延暦寺の末寺に寄進した。延暦寺は鳥羽院に平泉寺の末寺化を認めるよう迫り、覚宗の没後に延暦寺末寺とするとの院宣を得た(資1 「百練抄」同年四月七日・五月四日条など)。覚宗は仁平二年(一一五二)に没しているので、まもなく平泉寺は延暦寺の末寺となったであろう。一般にこうした末寺化は国衙との政治的経済的軋轢が原因となることが多いが、平泉寺の場合も伊勢神宮役夫工米など一国平均役に対する抵抗が延暦寺末寺化の背景にあった。
 こうして平泉寺は、延暦寺と結びながら地域の権門寺院としての地歩を固めていったが、そのなかで軍事集団としての性格も強めていった。養和元年(一一八一)九月に平通盛軍が木曾義仲追討のため越前から加賀に進撃したところ、平泉寺長吏斉明は平家方から寝返って、背後から通盛軍を襲撃して敗退に追い込んでいる。ところが寿永二年(一一八三)四月の平維盛を将とする追討軍との南条郡燧城合戦では、斉明は逆に平氏に内応して源氏を破り、さらに加賀国へと侵攻している。結局、斉明は倶利伽羅峠の戦いに勝利した木曾義仲に捕らえられ処刑されたが、北陸道での戦いで平泉寺が重要な軍事的役割を果たしたことがわかる。
 こうした平泉寺の軍事集団化の背後には、武士団の寺院内への流入があった。平泉寺の長吏斉明は越前に勢力をもつ武士団である河合系斎藤氏の出身で、叔父には白山長吏広命が、甥にも平泉寺長吏実暹がおり、特に実暹の場合、長吏職を「相伝の所帯」と称している(「天台座主記」)。しかも斉明とほぼ同時期に疋田系斎藤氏からも平泉寺長吏賢厳が出ており、この時期に越前斎藤氏が平泉寺を掌握していたことがわかる。その過程では寺僧同士の殺し合いもおきており(資1 「百練抄」嘉応二年閏四月三日条)、平泉寺内での厳しい武力対決を経るなかで斎藤氏一族の覇権が確立したのであろう。こうした武士団の流入がある以上、平泉寺の軍事集団化は必然であった(本章一節二参照)。 
写真72 平泉寺境内古図

写真72 平泉寺境内古図

 丸岡町東部にあった豊原寺も治承・寿永の内乱や南北朝内乱で僧兵が活躍するが、ここも越前斎藤氏と密接なつながりがあった。「当国坂北群(郡)斎藤の余苗」や利仁将軍の子孫が帰依渇仰したといわれ、疋田以成とその一族が豊原寺の発展におおいに寄与している(資4 豊原春雄家文書一号)。おそらく斎藤氏は外護者の位置にとどまらず、平泉寺と同様、豊原寺内部にまで進出したはずである。両寺の中世的発展とその武装化は、在地武士団に支えられていた。
 中世平泉寺の重要な所領に吉田郡藤島荘がある。これは最終的には源頼朝の寄進によって平泉寺領となったが、斉明の兄弟に「藤島右衛門尉助延」という藤島を名乗る人物がいたこと、藤島荘は平家没官領とされており、内乱以前は平氏与党の支配下にあったらしいこと、内乱後、源頼朝が藤島荘を平泉寺に寄進していること、以上の事実からすれば、内乱以前の段階から平泉寺が藤島荘と関わりをもっていた可能性も高い。平泉寺における斎藤一族の覇権の確立の背後には、藤島荘の権益があったとも考えられる。
 さて天台座主慈円は、平和を回復するには仏法興隆の必要があるとして、建久六年(一一九五)から無動寺大乗院で勧学講を開催した。その費用を捻出すべく、慈円は東大寺大仏供養のために上洛していた源頼朝と交渉して、藤島荘から上がる年貢のうち一〇〇〇石を勧学講に充てることを認めさせた。建暦二年(一二一二)の目録によれば、藤島荘の年貢四八〇〇石のうち、平泉寺の寺用が一〇〇〇石、勧学講など延暦寺の仏事用途が二八〇〇石、本家である青蓮院得分が一〇〇〇石となっていたし、綿三〇〇〇両も勧学講と本家に充てられていた。藤島荘の年貢米の実に八割近くが延暦寺に奪われているのである。しかも平泉寺はこれ以外にも末寺役を負担していた。
 延暦寺の内部ではその後、藤島荘や平泉寺長吏職をめぐって梶井門跡と青蓮院門跡との間で紛議がおこり、建保二年(一二一四)には青蓮院門徒が離山する騒ぎとなっている(「天台座主記」)。平泉寺や藤島荘が天台座主の進止(支配)なのか、それとも青蓮院の別相伝なのかに紛争の原因があったが、結局、慈円・青蓮院側の主張が通ったようである。しかし文永二年に園城寺焼打ちを咎めて、幕府が座主最仁(梶井門跡)を改易して澄覚を補任したさい、藤島荘と平泉寺は座主澄覚の進止とされた(「新抄」)。
 これに対し平泉寺は、重い負担に不満をつのらせ、延暦寺の支配下から離脱の動きをみせるようになる。そして藤島荘などを押領するとともに、末寺役の納入を拒絶するようになった(「門葉記」)。建武四年(一三三七)平泉寺衆徒は新田義貞の追討に協力して藤島城に篭もるとともに義貞調伏の呪咀を行なったが、そのさい、平泉寺は延暦寺と争ってきた藤島荘の領知を北朝側に認めさせた(『太平記』巻二〇)。しかしその奪還は必ずしも容易に実現せず、これ以後も藤島荘は青蓮院の支配下にあったらしい(「華頂要略」巻二〇)。しかしそのなかで延暦寺との本末関係は次第に実質的意味あいを失い、平泉寺は地域の有力権門寺院として自立し、その最盛期を迎えることになる。
 白山系寺院にはこのほかに、丹生郡大谷寺、今立郡大滝寺・長泉寺、坂井郡豊原寺・千手寺などがあった。なかでも豊原寺衆徒は僧兵として勇名を馳せており、平泉寺とともに越前を代表する大寺である。織田信長の焼打ちや明治期の神仏分離の影響もあって現在は廃寺となっているが、平泉寺と同様、故地には厖大な寺坊跡が残されている。十五世紀中ごろに成立したと考えられる「白山豊原寺縁起」によれば(資4 豊原春雄家文書一号)、寛喜元年(一二二九)豊原寺は延暦寺と本末関係を結んで妙法院門跡領となっている。従来は園城寺や興福寺とも宗教的交流があったが、以後は山僧(延暦寺の僧)を学頭に迎えて天台宗への純化を図ったという。また嘉暦元年(一三二六)と至徳二年(一三八五)には平泉寺と相論となり、いずれが本寺であるかを争ったが、最終的に豊原寺の主張が裁許されたという。
写真73 坂井郡豊原寺跡(丸岡町豊原)

写真73 坂井郡豊原寺跡(丸岡町豊原)

 平泉寺との本末をめぐる同様の動きは、越知山大谷寺でもみえる。越知山は泰澄が白山を開く前に最初に修行をした霊地といわれ、平安後期の木像十一面観音像・阿弥陀像・聖観音像を伝えている。これは白山三所権現の本地仏としては最古の遺存例である。ところがこの越知山でも平泉寺の「本寺」であるとの主張が登場するようになる。その前提となったのは、越知山が泰澄の最初の修行地であり、また彼の入定地でもあるという伝承だが、泰澄伝のなかでこうした伝承が登場するのは鎌倉期の末になってからである。このころから大谷寺も白山信仰の主導権争いに名乗りを挙げたのである。越前の白山信仰は平泉寺を中心に展開したが、地域寺院としての自立化はむしろ寺院間の矛盾を顕在化させ、政治的・宗教的な葛藤を激化させることになった。



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