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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    一 越前・若越の顕密寺社の展開
      若狭の祈秩序
 若狭における国衙の祈秩序をうかがわせる史料が、文永二年(一二六五)の大田文である(ユ函一二)。ここでは若狭にある六二の寺院と神社が挙げられ、それぞれ国衙から不輸田として認められた寺田・神田の面積が記されている。とすれば、この寺田・神田の量的多寡が、若狭における体制側の宗教秩序を表示しているはずである。この点で若狭は、鎌倉期における国衙の宗教秩序を展望しうる稀有な事例といえよう。そこで大田文に記載されている寺社のうち、寺田・神田の面積の多いものから順に表11に整理してみた。

表11 文永2年若狭大田文の寺田・神田

表11 文永2年若狭大田文の寺田・神田
 まず一・二宮である上下宮(若狭彦社・若狭姫社)の神田が四六町余と、国内の寺社のなかでも圧倒的な広さを誇っている。しかもこの神田には「不検注」という他にはみられない注記があり、一・二宮は国内の他の寺社とは異なった特権的地位を占めていた。上下宮はこれ以外にも、八講田・彼岸田など三町四段余の除田を認められていたし、その祈供料として広大な常満保が設定されていた。
 常満保は遠敷郡富田郷・西郷・東郷の二九町余の田地からなる国衙支配下の保であるが、そのうち一九町余が除田とされて、そこからの年貢が国祈所の供料に充てられていた。費用の内訳は恒例祈(一四町三段余)、長日仁王最勝王講(二町)、観音経万巻・薬師経千二百巻(六段)や御読経所炭(八段余)となっており、国祈所では、仁王般若経・金光明最勝王経といった護国経典の講会や、一・二宮の本地である薬師如来と千手観音への読経が行なわれていた。恒例祈の内容はよくわからないが、修正会・仏名会といった行事が実施されていたはずである。この常満供僧は一宮の宜一族との間で婚姻関係を結んだ事例が多く、図13のようにその供僧職の多くは宜一族の間で相伝された。常満保は一・二宮の祈所であっただけではなく、血族の面でも一宮と一体化していた。 
図13 若狭国常満保供僧職関係系図

図13 若狭国常満保供僧職関係系図
注) 若狭彦神社文書2号(資9)により作成した。

 上下宮についで神田・寺田の多いのが国分寺である。国分尼寺の七町五段余を含め、二五町余が除田とされている。尼寺は国分寺が掌握していた。さて国分寺は平安期に次第に衰退していく傾向にあったが、それでも全国で三分の二以上の国分寺が中世でも活動していることが確認できる。しかも鎌倉初期より朝廷や幕府が国分寺・国分尼寺や一・二宮の修造をさかんに命じており、国分寺・同尼寺を一・二宮とともに中世国家の祈秩序の中核として再編しようとする動きもみえる。こうした新たな動きがどこまで現実化されたか定かではないが、一・二宮とともに国衙祈の中核を担った若狭国分寺は、中世的再生に成功した例といってよかろう。
 国分寺運営の実体は定かではないが、図14のように、国分寺大別当明印の九代の子孫にあたる小別当厳俊は娘を若狭彦神社の宜景尚(一一八三〜一二五二)に嫁がせて、小別当職を孫の実尚からさらにその子尚印へと相伝させており、小別当職は一族内で実子相続されていた(資9 若狭彦神社文書二号)。また実尚と尚印は常満供僧を兼帯していたし、実盛も国分寺供僧と常満供僧・小浜八幡宮宜を兼帯しており(図13)、国分寺と常満保・小浜八幡が密接な関係にあったことを示している。事実、貞和五年(一三四九)に若狭国分寺供僧職をめぐる相論のさい、文書が謀書かどうか常満供僧に問い合わされており、供僧一同が答申している(資9 神宮寺文書七号)。このように国分寺と常満供僧とは緊密な関係にあり、両者が若狭の仏教祈の中核であった。
図14 若狭国国分寺別当職関係系図

図14 若狭国国分寺別当職関係系図
注) 若狭彦神社文書2号(資9)により作成した。

 国分寺の仏事のなかで特に重要だったのが修正の吉祥会で、厳重無双の御願とされて、老耄・病気・禁忌・幼稚以外は代理の僧を立てることが認められなかった。事実、十四世紀中ごろの国分寺供僧良円は、これに出仕しなかったため改易されており(同前)、その厳重さがうかがえる。修正の吉祥会は古代の吉祥悔過に源を発している。毎年正月に昼は最勝王経を講じ夜は吉祥天に罪悪を懺悔して天下安穏・五穀豊穣を祈った儀式で、八世紀から官大寺や諸国国分寺で実施された。『今昔物語集』(巻一三―四〇)では、「諸国にも吉祥御願と名づけて各国分寺」で年始に最勝王経を講じていると述べているし、中世大隅の国分寺でも吉祥御願は最も重要な法会の一つであった(「国分寺文書」『薩藩旧記』)。若狭では応仁の乱後まで国分寺吉祥御願が実施されていたことが確認できるが(資9 明通寺文書六四号)、天正五年(一五七七)に国分寺の七堂伽藍は焼失した。
 満願寺は文永の大田文によれば、大飯郡の佐分郷と本郷に計五町一段余の寺田を認められており、寺院としては国分寺についで面積が広い。鎌倉期の国衙祈体制のなかでかなり重要な位置を占めていたはずであるが、現在廃寺となっており詳細は未詳である。十七世紀中ごろに小浜の意足寺が満願寺の古跡に移ったといわれ(『若州管内社寺由緒記』)、現在の大飯町意足寺の地に満願寺があったらしい。意足寺の本尊千手観音像は、満願寺の本尊を継承したようである。この千手観音は一木造の平安仏(国指定重要文化財)で、胎内に応徳元年(一〇八四)書写の千手千眼陀羅尼経を納める。文安六年(一四四九)の東寺修理料勧進に対し、満願寺の八名の僧侶が奉加しているし(ユ函一八二)、このころ骨格ができた若狭三十三所のうちの一つでもあった。
写真68 若狭国分寺跡(小浜市国分)

写真68 若狭国分寺跡(小浜市国分)

 ところで文永の若狭国大田文をみると、神宮寺の所領が三段二四〇歩(三八番目)と予想以上に少ないことに驚かされる。神宮寺は奈良期の成立といわれ、少なくとも平安初期には成立を確認することのできる古刹で、上下宮の神宮寺であり「若狭国根本神宮寺」と自称していた。にもかかわらず寺田がわずか三段余というのは、上下宮の神田の巨大さに比べて少なすぎるであろう。しかも、建長元年(一二四九)の藤原光範寄進状によれば、「当寺の破壊、殊に甚だしく、人法共になきが如し」とあり(資9 神宮寺文書一号)、かなり衰退していたようである。院政期に若狭国一・二宮が国衙祭祀の中核として発展していくなかで、一・二宮での仏教祈は神宮寺の主導から、次第に常満供僧主導へと取って代わられた。神宮寺僧の一部は常満供僧となったが、神宮寺そのものは一・二宮の発展から取り残されたのである。しかし鎌倉中期以降、神宮寺は在地領主の信仰を得ながら再出発することになる。



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