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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    一 越前・若越の顕密寺社の展開
      中世社会と仏教
 中世社会の生産力水準は決して高くなく、自然への依存度が高かった。技術も呪術から自立しておらず、両者は未分離なままであった。このことは祈の有効性を人びとに実感させることになり、五穀豊穣・鎮護国家の祈りが中世宗教に課せられた使命であった。つまり平和と繁栄を祈り実現することが、宗教の中心的役割であった。その点でいえば、中世宗教は宗教的現世主義を基調としており、祈の有効性が信じられている限りは、宗教界における顕密寺社の地位は揺らぐことはなかった。鎌倉期に法然・親鸞・道元・日蓮などのいわゆる鎌倉新仏教が登場するが、それらはあくまで少数派の異端であるにとどまっていた。実際、これらの宗派が社会的な広がりを確保するには戦国期を待たなければならなかったし、それ以前に教団が展開した場合でも、延暦寺など権門寺院の末寺となったり、教義を変質させて妥協を図るなど、顕密仏教の世界に埋没していった。
 顕密仏教は、中央の延暦寺・興福寺・東寺や六勝寺、あるいは一宮・国分寺や地方有力寺院といった国レベルでの祈組織をもっていただけではない。荘園鎮守や村堂を毛細管のように張りめぐらせていたこと、そしてこれらの仏神事を通じて民衆意識を深く捉えていた点に、その強靱さの秘密があった。例えば三方郡山西郷の鎮守二十八所社では、修正会・彼岸会・法華懺法・不断如法経や毎月十七日千巻読経などが行なわれていたし、郷内の仏神事の運営には民衆も積極的に関与していた(資8 園林寺文書七・一三・一四・一六・二七号)。興福寺領の坂井郡河口荘では民衆支配の宗教的拠点として十郷それぞれに春日社が勧請されて、修正会・修二会・五節句・彼岸会のほか、仁王講・大般若経・法華八講・常楽会などが実施されたし(資4 春日神社文書一号)、正応元年(一二八八)に坪江郷が興福寺に寄進されたおりにも、春日社が勧請されている。また鎌倉初期に遠敷郡西津荘の多烏浦が開発されたさい、浦鎮守として天満宮が勧請され、浦本堂として大福寺が造立されているし、坂井郡豊原寺では毎年正月に閼伽井の水を汲んで祈し、毎月八日の薬師講で参詣した道俗に一滴ずつ注いで、除病の加持香水としていた(資4 豊原春雄家文書一号)。このように中世民衆にとって、寺院や神社は必要不可欠なものであった。生産力水準の低い中世社会にあっては、五穀豊穣を祈る修正会などの祈は必須の儀礼であり、それゆえにこうした祈は一種の農業政策であり、また民衆生活を安定させる社会福利政策の意味あいをもっていた。中世社会が顕密仏教を必要とした構造的要因がここにある。



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