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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    六 網場漁業の成立と製塩
      網場の打替
 永仁和与では、網漁については網の種類に応じて漁場の利用形態が規定されている。網の種類としてこのころ飛魚網・鰒網・小鰒網・立網・大網・縄網・夜網が知られるが、これらの網の操業は「立つ」「引く」「打つ」と表現されており、立網・曳網・打網という操業形態の違いによる網の種類の分化も進んだことがわかる。立網のように一〇〇〇人の人をもって立てたという浦惣中の網もあったが、個人持ちの網も現われてきた。そして嘉暦三年(一三二八)には、谷及・須那浦・手井浜におけるふくらぎ網地(網場)については汲部・多烏の間で「うちかえ」の規定が知られる(同六八号)。これはそれまでの網場規定が浦と浦の規定であったのに加えて、浦の有力者が順番で網場を利用していくことを定めたものである。同時に、農村において百姓が名主職に補任されるように、この「うちかえ」網場の権利も浦の有力者に充行われるようになる(同六七号)。こうして、特定の網場が浦の有力者の家産とみなされるようになっていった。これ以前の延慶四年(一三一一)に多烏・汲部両浦は、地頭方について浦分年貢塩・月別御菜・夜網年貢・飛魚網地・和布・山年貢などの年貢二三貫文と代官厨米・正月祝・鎌倉夫・京上夫などの公事一七貫文を合わせた四〇貫文で年貢の請負を実現しており、この請負額は室町期にも維持されている(同五三・五四・一〇四号)。網場漁業の確立とともに浦は安定期を迎えたが、南北朝期から若狭の浦々の史料は急速に減少していく傾向がみられる。再び史料が豊富になる戦国期までの間の浦々の停滞ともみられる現象はさまざまな事情にもとづくものではあろうが、網場漁業が政治変動に左右される土地所有から相対的に離れて安定的に形成したことが反映されているのであろう。



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