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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    六 網場漁業の成立と製塩
      網場紛争と和与
 ところが、正応四年から永仁二年(一二九四)にかけて両浦の間に紛争が生じる(同二九・三〇・三三号)。紛争の火付け役となったのがこのときの得宗代官円性であって、彼は多烏刀守重を改易して大春日則友を刀とすることで多烏内部に紛争をおこしていたが、さらに天満宮宜職を守重から汲部の時延に改易して両浦の紛争を引き起こし、また御堂をめぐる両浦の対立も激化した。この円性と結ぶ汲部は、狩倉山(領主が狩りをする山)の木を切り払って焼畑にしたという。しかしまもなく汲部もこの円性と対立し逃散したとされており、円性は百姓が捨て置いた塩木を焼かせて作った塩を百姓に預け置いたという(同三六号)。すでに述べたように、このころには浦においても「惣百姓」が形成されてきたが、生産力の安定とともに生じる人口増などに対応するため、惣に結集する百姓は生産拡大を図って隣浦と紛争を生じるようになったのであろう。また、浦の富を強引に獲得しようとする代官の行動が浦の対立を煽っていたのである。
写真66 多烏浦(右)と汲部浦(左)

写真66 多烏浦(右)と汲部浦(左)

 永仁四年にいたり両浦の代表は鎌倉において和与し、得宗代官がこれを保証した(同三八号)。和与の内容は、1御公事は両浦半分宛とすること(これは多烏にとってかなり不利)、2古くから支配してきた山や地先の海などにおける根本知行はそれぞれの浦に認めるが、得宗代になって加えられたところの山と海は中分すること、3縄網・夜網は一河宛(網の数を同数にする)、立網は「寄合」とし、そのほか根本知行以外での漁は自由とすること、4御堂は西三間を汲部、東二間を多烏のものとし、住僧は二間分に一人置くこととすること、5天満宮の宜は貞守一人を任じることという五点からなるものであった。要するにこの和与は漁業に関していえば、根本知行の海はその浦の支配とするが、それ以外は均等もしくは共同で漁をするという原則にもとづいている。これがのちのちまで両浦の網場漁業を規定した永仁の和与であるが、これが定着したのは嘉元二年(一三〇四)の両浦の相論を経たあとのことであった(同四三〜四五号)。この嘉元の相論は、多烏・汲部それぞれが須那浦と谷及の網地(網場)に立網を独占的に立てる権利があることを主張して争ったものである。多烏がこの両網地は多烏の根本知行に属すると主張するのに対し、汲部は須那浦は国御家人鳥羽氏の「御領」であるから多烏の根本知行ではなく、鳥羽氏の許可を受けた汲部が独占的に網を立てる権利があると主張している。さらに鳥羽国親も須那浦は鳥羽氏の代々知行してきたところであり、したがって両山の「懐内」はその浦について漁をするのは傍例であり、具体的には鳥羽国範がこの浦で網を引いたという例などを挙げて汲部を支援した。汲部は鳥羽氏と結んで土地を支配する者が海をも支配するという論理を主張したのであるが、多烏は承久年間(一二一九〜二二)の院宣によれば、そのような他領は交じっていないと反論したものの、須那浦が根本知行であることを立証することはできなかったようで、相論はおそらく永仁和与に沿った形で落着したのではないかとみられる。
写真67 遠敷郡須那浦

写真67 遠敷郡須那浦



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