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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    六 網場漁業の成立と製塩
      網場の保証
 次に網場漁業については、具体的な様相がわかる多烏・汲部両浦を例に述べたい。浦が負担する海産物は初めは「浦御菜」と称されているが、寛喜三年(一二三一)に多烏浦の刀に補任された秦武成にこれを負担することが命じられており、まずは「村君」である刀の役として現われる(秦文書二号)。ついで寛元元年(一二四三)同浦の秦助武が須那浦山の山預職に任じられると、塩のほか「便宜御菜」を納入することとされており(同五号)、塩木山に付随して海産物が徴収されるようになるが、「便宜御菜」と称されているように数量などは確定されておらず、まだ礼物的な性格を残している。先に述べたように文永六年までには黒崎山が西津荘に帰属することになり、さらに同八年には得宗時宗が守護となって守護領西津荘地頭を兼ねたから、西津荘に属する多烏・汲部両浦の山・海に関する権限も確定された。このときに両浦のものとされた山・海は、「しんわたり(新渡り)」と称されている(同四〇号)。こうした状況の変化に反応した多烏浦の刀秦守高は、文永七年に書いていた「多烏浦立始次第」を、翌八年にはより詳しくさらに注進状の形式で記して地頭方に提出した(同一四・一六号)。増補された部分で守高は、黒崎山に対する宮河方の領有は強いものではなかったことを述べてこの山が多烏に帰属することは当然とし、また公事軽減の期待を寄せるとともに多烏開発の先祖はもと須那浦にいたとして、今は汲部に奪われている須那浦を回復することにより多烏の繁栄をもたらしたいと願っている。すなわち得宗の支配のもとで対外的に山と海の領域を拡大確保した多烏は、今度は同じ荘内の汲部との格差是正を求めているのである。
写真65 秦守高多烏浦立始次第注進状(秦文書、部分)

写真65 秦守高多烏浦立始次第注進状(秦文書、部分)

 得宗代官はこれに応じ、文永九年には両浦の公事負担の割合を多烏三分の一、汲部三分の二と定め(同二〇号)、翌十年にははまち網は両浦の百姓沙汰人の「寄合」(相談)としている(同二三号)。さらに建治三年(一二七七)には、のちに問題となる由留木の飛魚網と須那浦の鰒網については多烏の嘆願を容れて多烏に与え(同二五号)、弘安元年には「由つる木大網」について両刀の「大網むらきミ職」を安堵している(同二六号)。得宗代官は両浦の歴史や現状をふまえつつ、こうした一連の処置により網場に関する規定を整備していったのである。



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