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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    六 網場漁業の成立と製塩
      製塩と塩木山
 若狭は全国的にみても珍しく鎌倉期の浦の文書をよく伝えているが、それは鎌倉期に確定された浦の網場の範囲や利用法がはるかのちまでも効力をもっていたからであった。しかし網場が確定してくるのは鎌倉後期のことであって、鎌倉前期には山の帰属や利用権が問題とされることが多い。海水を煮詰めて塩をとるためには燃料としての塩木を獲得するために山を必要としたが、この山の帰属が曖昧な場合が多かったからである。文暦二年(一二三五)に讃岐尼御前(二条院讃岐)の所領である遠敷郡宮河保内の黒崎山は一〇に分割され、周辺の汲部・阿納・志積・矢代・多烏の浦の刀あるいは浦百姓全体が預かり、山手塩を納入していた(秦文書三号)。実はこの黒崎山は遠敷郡西津荘に属する汲部・多烏両浦が立地する黒崎半島の山であったから、この山の帰属をめぐり西津荘と宮河保との間に対立がおこっており、いったんは宮河保方に付いた多烏浦の刀秦守高が建長四年(一二五二)に西津荘方より刀職を安堵されると(同七・八号)、刀職を望む大春日則元は浦人を誘って宮河保方に属するなど、複雑な浦内の対立を引き起こしている(同三号)。しかし北条氏一族が若狭守護となり西津荘を守護領とするなかで、文永六年(一二六九)までには黒崎山は西津荘領として確定されている(同一一・一二号)。また、三方郡の辺津浜山は正元元年(一二五九)には小河浦(三方町小川)の住人とみられる人物が山守職を与えられていたが(資8 大音正和家文書九号)、翌二年には百姓の申請により御賀尾浦(三方町神子)が山守職を獲得したため(同一一号)、こののち両浦はこの山をめぐって南北朝期後半まで争うことになった(同七一号)。
図12 中世若狭の主な浦々

図12 中世若狭の主な浦々
注) 中世の地形は未詳のため、現在の地形に拠った。

 さて文永九年の遠敷郡汲部浦山塩年貢の注文によれば、山は二四の百姓の名に分割されており、名ごとに均等に四斗の塩を負担しているから、塩浜も均等に分割されていたものと思われる(秦文書一八号)。こののち事情は明らかでないものの山手塩が米で納入されていたが、弘安七年(一二八四)には百姓の嘆きにより俵別一〇〇文を納入することとされている(同二七号)。十四世紀の例ではあるが、表10に示したように塩を越前まで廻船で運ぶと倍近くの値段で売れることからすれば、廻船がさかんであった浦にとっては銭納化が有利であったろう。正応六年(一二九三)には汲部浦で塩を煮詰める釜に対する「釜年貢」がみえ(同三三号)、元応二年(一三二〇)の多烏浦の「大かま一・小かま一」の年貢銭は三七五文とされている(同六一号)。なお、敦賀郡手浦の塩釜を三方郡日向浦の人が文保二年(一三一八)に公事塩五石で請け負っていることも知られる(資8 秦実家文書八号)。塩年貢の徴集方法に関連して全国的にみても注目されるのが、元徳二年(一三三〇)に西津荘で塩浜の検注が行なわれていることであり、除分を除いた二町八段二九〇歩の塩浜について段別五斗の塩年貢が課せられ、塩一石別四五〇文の換算で代銭を納入することとされている(資8 大音正和家文書四八号)。塩山・塩釜・塩浜に対する浦人の個別所有が進展していたとみられるから、塩生産の個別経営の形成も想定しうるであろう。



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