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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    六 網場漁業の成立と製塩
      越前の漁業生産物
 敦賀郡気比社は周辺の浦人を気比社神人として掌握し、魚を中心とする「御菜」のほか、苔・和布・丸塩・鮨(甘鮨・大鮨)を納入させていたことが建暦二年(一二一二)の注進状にみえている(本章四節二参照)。鎌倉末期の坂井郡坪江下郷では、三国湊・三ケ浦(梶・三保・前浦)・北方(北潟)・牧村が、海・川・潟の産物として越中網鮭・能登鯖・網・差網鮭・鱒網・飛魚・鯉・鵜飼鮎・塩・鮨桶・苔和布を公事として納入している(「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)。このうち越中網鮭・能登鯖が注目されるが、三国湊がこれらを負担していることは、越中・能登の人や船が鮭・鯖を積んで湊に入ってくることに対する課税と考えることもできるが、そうした湊をもたない北方が能登鯖を負担していることからすれば、これらは坪江下郷の人たちが越中や能登に出かけて漁をしたことを示している。北方の能登鯖は一艘別三〇差を負担するが、年によってこの負担量は不同と記されている。網や漁業の内容については、残念なことに詳しく知ることができない。



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