目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    六 網場漁業の成立と製塩
      浦と刀
 九世紀末に遠敷郡志積浦が陽成院の所領となっていたことから(資1 廬山寺文書)、浦が支配の単位として現われるのは平安中期にまでさかのぼることがわかるが、十二世紀の初めころ京都への塩の負担はないとする大飯郡内浦を、天皇の食膳を供進する役を負う御厨子所の支配下に置こうとしたことが注目されているように(資1 東寺本東征伝裏文書)、浦人を権門のもとに編成しようとする動きが活発になる。またのちの太良保末武名の開発領主である丹生隆清の大治元年(一一二六)の所領のうちに「海壱所 鞍道浦」が含まれていたように、在地の支配層による浦支配も進展していた(ぬ函一)。
 建久六年(一一九五)の遠敷郡犬熊野浦の四至が示しているように、浦とは両端の崎(岐ともよばれた)を境としてその内部に含まれる「山野」や「浜」、「平地荒畠」のような耕地からなり(資2 吉川半七氏所蔵文書一号)、さらに「当国浦々の習、両方山の懐内はその浦に付き漁仕り候」といわれるような漁場としての地先の海も含んでいた(秦文書四五号)。浦人は嘉禎元年(一二三五)までは「海人」と称されているが(資8 大音正和家文書六号)、こののちは百姓と称されるようになる。これはおそらく浦が荘園制に組み込まれていったことと関連するのであろう。平安期には農村役人としてみえていた刀は、鎌倉期以後はもっぱら浦の指導者をさすようになる。本来の浦共同体の長としての刀は、荘園制に組み込まれることにより「沙汰人」として逃亡百姓跡に作人を付けるなどの勧農を義務づけられている(同三三・三八号)。また網(網場)が浦惣中のものとなった段階では、刀の権限は網に関しては「村君職」となり、実際に網を指揮する熟練者は「音頭」と称されたらしい(秦文書八五号)。浦人の中心をなすのが百姓であるが、「百姓役を刀兼帯の例これ無し」といい(資8 大音正和家文書三二号)、また敦賀郡手浦では気比社への負担が「刀丸さたの分」として特別扱いにされているから(資8 秦実家文書二号)、刀と百姓は区別されていた。しかし刀の地位が百姓と隔絶したものでなかったことは、刀不在のときは刀役は「百姓等の中の沙汰として」負担するように命じられていることから明らかである(資8 大音正和家文書一四号)。百姓と区別される身分として新参の浦人をさす間人があり(同四二号)、越前でも間人・名子が南北朝末期以後知られるようになる。さて鎌倉期の浦の主要な生業は漁業・製塩・廻船であったが、廻船はすでに述べてあるので(本章五節二参照)、ここでは漁業と製塩をとりあげる。



目次へ  前ページへ  次ページへ