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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    五 地域の変貌と悪党
      悪党の横行
 悪党という言葉は、鎌倉後期より従来の規範や倫理・作法を無視して、目的達成(多くは富の獲得)のために手段を選ばず、しばしば直接暴力に訴える人物をさして用いられている。右の深町の行為はまさに悪党にふさわしいが、太良荘でも弘長二年(一二六二)に末武名を争う脇袋範継は宮河乗蓮の恒枝保分苗代を押さえようとして「数多の悪党を率いて」乱入したとされている(ル函一四)。また、末武名をめぐって脇袋範継と争った一族の惣領格の鳥羽国茂は、「母子敵対」のみならず遠敷郡瓜生荘公文として近江木津浜に置かれている年貢を押領し、同郡吉田荘公文としては百姓より数十石を責め取った「悪事之仁」として建治三年(一二七七)に非難されている(京函一四)。一方で得宗の専制的な支配が強まり、他方で惣百姓の力が強まっていくなかで、在地武士が得分を維持・拡大しようとすれば悪党的行動に出るほかない状況が広がりつつあったことがわかる。
 すでに述べられている摂関家領今立郡方上荘の騒動も、惣百姓の抵抗が強まるなかでおこった疋田系斎藤氏一族の内部対立が悪党的行動となったものであった(本章五節二参照)。弘安元年(一二七八)に方上荘百姓は政所に押し寄せて目代を追い出すという事件がおこり、翌二年九月に目代方勝訴の判決が下り、百姓五人が獄舎に処せられている(『勘仲記』弘安二年九月二十三日条)。このときの方上荘下司は、疋田系斎藤氏の一族進藤氏に属する家康(家安)であったとみえている。しかし、ちょうどこの年に方上荘現地の寺社である般若寺における非法を禁止している人物として「藤原助高」が現われ、この助高の子孫はこののち斎藤・進藤を称して現地で支配にあたっている(資5 安楽寺文書)。この事件から二〇年後の正応二年には、前下司などが城郭を構え荘園領主の使者に抵抗していることが、「長成申状」を添えて報告されている(同三号)。この長成は同じく進藤氏に属し、祖父の長範が近衛家に仕える諸大夫(位が四・五位にとどまる下級貴族の家格)として建長年間(一二四九〜五六)より近衛家領丹波国宮田荘(兵庫県西紀町)の預所に任じられてきた家である。したがって、弘安二年ののちに方上荘下司は家康系から長範系の長成に移っていたことになり、これに同じく進藤氏一族の助高が絡んで、下司職をめぐる争いが城郭を構えるという武力抗争になったものと考えられる。なおのちの正安二年に「斎藤左衛門尉助高」と宮田荘預所の長成が方上荘下司職を争い長成に安堵されたとあるから、紛争はその後も続いていたことが知られる。
 大野郡小山荘のうち、舌・黒谷・深江・木本・穴間(穴馬)・秋宇・東小山・東西縁は平安期の開発領主藤原成通の子孫が伝領し、鎌倉後期には興福寺浄名院が領家として知行していた。これらの地について地頭伊自良氏と紛争がおこり、永仁五年に「和与中分」がなされ、今後は「地頭・領家各別に所務を致す」こととなった(資2 京大 一乗院文書七・一一号)。この和与とは荘園内部の郷村ごとに土地を均分する下地中分が行なわれたことをさすものと思われ、荘域内には今日でも領家方・地頭方を付してよばれる村が多くみられる。その後、領家方の主張によれば浄名院如意丸が幼少であったことにつけ込んで地頭方が有利な判決を得たといい(あるいはこれが永仁五年の和与のことか)、地頭方の言い分によれば領家方預所が中分に違犯して地頭方の下地を違乱したためというが、ともかく紛争が再燃したため、嘉暦三年(一三二八)に再び和与となった。今度の和与は、穴間以下の預所職を「地頭代信昭」が五年間毎年銭九五貫文の年貢を納入する「地頭請所」とし、検注を行なう権利や公文などの荘内所職の補任権は領家が保持するが、公文などは預所(すなわち地頭代)の命令に従うこととされている(同六号)。これは下地中分から地頭請へと地頭が荘園を侵食していく典型的な事例であるが、領家が妥協しなければならなかった理由は悪党の横行にあった。地頭代の提出した契約状に、地頭請となったからには「悪党大納言房」をただちに退治すると記されていることにそれは明白である(同五号)。
写真64 地頭代親綱契約状(京大 一条院文書)

写真64 地頭代親綱契約状(京大 一条院文書)

 鎌倉後期の地域社会の変貌はこのような悪党の横行を生み出していった。これを押さえることが鎌倉幕府得宗支配の重要課題になったのであるが、結局それは成功しなかった。



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