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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    五 地域の変貌と悪党
      悪党と津料
 このように市場に物資や銭貨が集散し、市場と湊との間の物品輸送がさかんになってくると、それらの富をめぐる紛争が頻発し始める。正和五年二月に坪江郷内北金津八日市住人の道泉房と河口荘内南金津住人木下西信房らが、加賀国菅生敷地(石川県大聖寺市)の地頭狩野忠茂の下人藤二郎を金津上野で殺害し銭貨一六貫七〇〇文などを奪ったとして六波羅探題に訴えられている(「雑々引付」)。この事件の背景は知りがたいが、金津住人がおそらく顔見知りであった近隣の地頭下人を殺害していることからみれば、単なる強盗殺人とも思えず、金銭をめぐる紛争の可能性もある。移動する物資から収益を上げるためには、津料や関料を徴収するのが一番能率的なやり方である。それで諸国に多くの関所が設置されたが、幕府は文永末年(一二七五年ころ)に西国の新関停止を命じ、正安三年(一三〇一)にもこの禁令を再度徹底している。ところがこの正和五年五月に、三国湊で津料を徴収しているのは幕府の文永以来新関停止の命令に背くものだとして幕府の使者が入部したことが知られる(五章二節三参照)。同年八月には国司津料の徴収を禁止することを興福寺大乗院が命じているが、この津料は坪江上郷でも徴収されていたとあるから、金津など内陸部の河川通行をも対象としていたことがわかる。さらに九月には、坪江郷住人深町式部大夫などが津料徴収に事寄せて、「悪党等」を率いて日吉十禅師御簾神人を殺害したとして延暦寺檀那院から訴えられている(同前)。坪江郷から御簾米が徴収され(「坪江上郷条々」)、上郷内には御簾尾という地名があるように、この地は簾に用いる葦などの豊富なところであり、これを商う人びとが日吉十禅師御簾神人として竹田川を往来していたのであろう。深町らは訴状のなかで殺害を業とする悪党と表現されており、在地社会の変貌のなかで悪党と称されるような動きが顕著となってきたのである。



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