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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    五 地域の変貌と悪党
      律宗僧の活動する市場
 古くは椿津も津として機能していたことが推定されるのであるが、椿津が上郷内にあり郷司あるいは下司の強い支配に置かれていたのに対して、金津は竹田川を挟んで北が坪江郷、南が河口荘に属する「入組み」の地であった(『雑事記』文明十二年八月三日条)。すなわち金津は特定の領主が独占的に支配権を行使できない境界の地にあり、この意味で荘園制の枠の裂け目にあたるこの場は、市場あるいは町として発展するにふさわしいのである。さらにこの金津には律宗寺院である大和西大寺の僧浄賢が住持となっていた阿弥陀寺があったが、金津は当時世俗との縁の切れた存在である「無縁」を標榜していた律宗の僧の活動する場でもあったのである。
 このように荘園制の裂け目において在地社会が生み出してきた公共的な場が地域の中心地となったことに注目した興福寺は、浄賢を通じてこの場を荘園支配のなかに取り込もうとする。まず永仁四年(一二九六)六月に興福寺はこの阿弥陀寺を坪江郷郷分の検断などの及ばないところとして保護するとともに、直接の掌握下に置いた(「坪江上郷条々」)。ついで二年後の永仁六年十二月十二日には、浄賢の差配により荘園領主の神である春日社が坪江惣社新春日社として金津に勧請された(「河口荘綿両目等事」)。さらに正和四年六月には興福寺は金津八日市人を金津神宮護国寺と新春日社造営のために付し、浄賢が造営を進めることを定めている(「雑々事書」)。こうして金津は、荘園領主興福寺によって坪江郷荘民の精神的支配のための拠点として位置づけられた。そしてこれを現地で推進したのは律宗僧浄賢であったのであり、無縁寺的な阿弥陀寺の僧から荘園領主を荘厳するための神宮護国寺の僧に転換した浄賢の姿に、この間の金津の位置づけの変化が象徴されている。
 金津宿には二二宇の在家があったが、そのうちの定使一宇とは興福寺使者の止宿する在家であろう。そののち建武年間の混乱時には坪江上郷政所を浄賢の寺であった金津寺に置きたいとされており(「建武応永引付」)、室町期には「坪江郷之内八日市新関代官」が置かれるなど(『雑事記』寛正五年八月十三日条)、金津は興福寺支配の拠点としての性格を維持していた。しかし、かつての無縁僧浄賢の姿は室町期に知られる金津道場に引き継がれていたことも見逃してはならない。この道場には聖が住み(同 長禄三年六月十七日条)、死者を荼毘に付していることも知られる(同 長禄三年九月二十六日条)。またこの道場は緊急避難場として年貢を預ける場でもあり(同 寛正二年十一月十二日条)、この地の土豪の堀江民部が農民たちと争ったときにはこの道場の仲介によって兵を引いたという(『私要鈔』長禄四年閏九月二十八日条)。これらこの道場のもつ葬送・避難所・和平の機能はいずれも無縁の場としての性格から生ずるものであり、それが特に周辺の農民との関係で現われていることが注目される。このように荘園制の裂け目あるいは境界に成立した市場・宿は、荘園制を解体していく可能性を秘めているだけではなく、荘園制の枠組みを超えた一つの地域を形成していく中心地としての役割をもっていた。それゆえに荘園領主はこの地を新たな支配の拠点とすることに力を注いだ。しかし、この地を完全に支配の中心地とすることはできず、在地社会のための中心地でもあり続けたのである。
写真63 「大乗院寺社雑事記」

写真63 「大乗院寺社雑事記」
(寛正二年十月十二日条)



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