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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    五 地域の変貌と悪党
      金津八日市の成立
 坪江郷のなかで最も繁栄しているのは三国湊であり、少なくとも耕地をもつ湊住人が五二人いたことがわかり、富裕な住人には長者銭が課せられていた。いうまでもなくこの三国湊は、坪江郷およびその周辺を含む地域の中心地である以上に、越前のあるいは日本海海運の中心地の一つであった(五章二節参照)。鎌倉後期の在地社会を考えるときに注目すべきことは、三国湊と並んでより在地住民の生活に密着した中心地が生まれたことであり、それが正和四年(一三一五)より史料に現われる金津の宿、あるいは金津八日市の成立であった。坪江郷は山裾の農村、台地上の集落、湊町、さらには梶・三保(安島)・前(崎)の三ケ浦まで含んでいる。したがってその産物は絹・絹綿・苧・胡麻・藍などはいうまでもなく、川を舞台として鵜飼在家の取る鮎のほか鮒・鯉・鱒、海でとれる越中網鮭・差網鮭・能登鯖・和布・苔和布が知られ、台地上の牧村ではその名のごとく馬を飼う牧士がいた。これらのまことに多様な産物がすべて三国湊を通じて荘民の負担物として大和興福寺に吸い上げられたわけではなく、金津の市場を通じて一部は京都への商品として、一部は周辺地域で消費あるいは加工される商品となったのである。こうして金津には北陸街道と竹田川舟運の交わる要所として宿と市場が形成され、地域経済の新しい中心地となっていった。応長元年(一三一一)の「河口荘所当米収納帳」によれば、「金津関三郎入道」に新郷・王見郷・新庄郷の収納米の一部が「下行」あるいは「売」られているから、この人物は年貢米の運送・販売にあたった問商人であったと考えられる。



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