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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    五 地域の変貌と悪党
      鎌倉後期の坪江郷
 これまで述べてきたことをふまえながら、鎌倉後期の在地の変貌を具体的に考えるため、坂井郡坪江郷をとりあげてみたい。別に述べられているように、坪江郷はもと長講堂領坂北荘に属していたが、正応元年(一二八八)に後深草院によって大和興福寺に寄進された荘園である(二章四節四参照)。郷域は河口荘細呂宜郷を除く竹田川以北の地に広がり、三国湊を含む広大な地域をおおっており、竹田川上流地域を上郷、下流地域を下郷と称していた。郷名は郷の最東南端の坪江(丸岡町)にちなむが、この坪江は前方後円墳を含む総数二三〇基以上の古墳が密集する横山古墳群のある地であり、またここには継体天皇の治水と開発の伝承をもつ式内社横山神社がある(通1 二章一節四・三章三節一参照)。鎌倉後期の上郷・下郷の土地台帳を検討してみると、上郷は本田九五町余・新田二一町余であるのに対して、下郷は本田一〇八町余・新田二三〇町余であったと判断され、鎌倉期に竹田川下流地域の開発が大規模に進展したことが知られる(「坪江上郷条々」、「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)。すなわち、古く坪江を拠点とする在地首長的勢力の開発のあとを受けて、中世においても竹田川下流への開発が進行し、それにともなって坪江の地名も広がり、中世の郷名として定着したのであろう。
 鎌倉後期の上郷の状況をみると、郷の田地は郷政所の支配する郷分九二町余と、郷政所の支配からは相対的に自立して荘園領家に直接年貢を納入する別納の地七か所六一町余に分けられている(右に述べた本田・新田の総計と合わないのは、この田数が他に算失田などを含むからである)。これらの別納分を支配し年貢を請け負っていたのは、のちの史料をも参照すると後山・深町・河村・瓜生などの郷内外の土豪たちであったと考えられる。上郷の別納のうちに椿津七町・疋田一〇町余の田地をもって両屋敷分と称されているところがある。椿津には土豪の屋敷に付属する直営地であった門田一町が含まれており、疋田にはかつては年貢免除地であったことを示す給田が五町もある。このことからこの両屋敷はかつて郷司あるいは下司などが拠点とした地であったと推定され、彼らは平安後期にこの地に土着して勢威をふるった越前疋田斎藤氏の権限を多少とも引き継いでいたと考えられる。椿津は現在の中川(金津町)付近に比定されているが、その地名からみて竹田川の舟運の拠点の津であったろう。竹田川では近代にいたっても舟運がさかんであり、舟を囲い発着場ともなる「川戸」が何か所もあった。



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