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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    一 越前・若越の顕密寺社の展開
      モンゴル襲来と仏神事興行
 一国内の仏事や仏教行政は、古代では国講師と国司とが共同してあたっていたが、十世紀になると国司の権限強化のなかで国講師の権限は解体し、以後、国司が部内寺社を管轄することになった。それに対し国衙支配の強化に抵抗する寺社のなかには、大野郡平泉寺のように中央の権門寺社と本末関係を取り結び、その権威をかりることによって国衙と対抗しようとした。こうして院政期には延暦寺などの末寺が全国に展開し、地域の宗教行政は国司と本末関係との対抗のなかで進展していった。こうしたあり方に一つの転機をもたらしたのがモンゴル襲来である。
 モンゴル襲来の危機のなかで、幕府―守護体制は国司の権限を吸収し、部内寺社に対する祈命令権を掌握することになる。弘安の役の翌々年の弘安六年(一二八三)十二月に、若狭をはじめ八か国の寺社で異国降伏の祈を行なうよう、幕府の下知が出ている。これを受けたのが当該八か国の守護北条時宗であるので、この命は全国の守護に通達されたとみてよい。また正応五年十月にも、一宮・国分寺および主要な寺社で異国降伏の祈を行ない巻数を進めるよう、守護に下知が出ている。その命は守護代を介して地頭・御家人・預所に通知され、それぞれの領内の主要寺社で祈して十一月中に巻数を進めるよう通知している(リ函一九)。こうした史料が太良荘の文書群とともに東寺に伝えられていることや、遠敷郡明通寺にも延慶三年(一三一〇)の降伏祈が守護代・税所代の連署で通達されていることからすれば(資9 明通寺文書七号)、幕府の異国降伏祈は現地の隅々にまで伝達され、全国一斉に実施されたといえよう。これまで一部の例外を除いて、幕府が直接一宮・国分寺や地方有力寺社に祈を命じたことはなかったし、またこれほど大規模な祈を繰り返し行なったことは朝廷でもない。対外的危機のなかで幕府は宗教政策の面でも権力集中を行ない、一宮・国分寺への祈命令権を掌握したのである。
写真69 遠敷郡明通寺(小浜市門前)

写真69 遠敷郡明通寺(小浜市門前)

 しかし、祈を命ずることは保護を与えることでもある。しかも「四海静謐已前に長日顕密の御祈を修せしむるの条、随分の忠節と謂うべけんや」とあるように(同一五号)、当時は降伏祈もまた一種の軍忠と意識されており、祈に励んだ寺社への恩賞が必要となってくる。こうして鎌倉末期、幕府は朝廷とともに大規模な寺社興行政策を展開した。例えば幕府は弘安七年に寺社の新造を停止し国分寺・一宮を興行するよう命じて、それぞれの現状や所領を注進させたが、その結果若狭では弘安九年に一宮と小浜八幡宮の造営用途が一国平均役として賦課され、荘園・寺社の抵抗を押し切って造営が行なわれている。
 こうしたなかで、税所領遠敷郡谷田寺も新たな動きをみせる。厖大な所領をもつ一・二宮や小浜八幡が、幕府の命によって国衙の力で修造されたにもかかわらず、若狭第二の御願所たる谷田寺ではわずか一町の料田も収公されており、本堂・鎮守宮・拝殿・楼門など伽藍の維持もおぼつかないと訴えており、弘安十一年に国衙から敷地安堵の禁制を得ている(資9 谷田寺文書一号)。このように寺社興行政策は一方では寺社間の矛盾を激化させたし、またそれぞれの寺院の自己主張を顕在化させて祈秩序の流動化をもたらした。



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