目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    四 市場と銭貨流通
      銭を要求する領主
 このように代銭納がみられるようになったことは確認されるが、それが在地社会にもった意味を考えるためには、さしあたり次の二点に注意しておく必要がある。その第一点は、代銭納は在地で銭貨流通がさかんになったことからおこったというより、銭貨を必要とする領主側の要求によって始まる場合の多かったことである。三方郡御賀尾浦(三方町神子)では文保二年(一三一八)に百姓たちが和布・塩・鮨桶の代銭納の廃止を地頭に求めたのに対して、地頭は永仁年間(一二九三〜九九)より訴訟のため「在鎌倉」を続けているので銭貨を必要とするという理由で百姓の要求を拒否している(資8 大音正和家文書二九・三七号)。また、太良荘地頭の若狭忠清は文永六年に京都大番役雑事として馬草・糠・薪・炭・雑菜を領家方の段別に課しているが、それらはすべて代銭で徴収した(エ函一一)。これに雑掌定宴は抗議して、糠・藁などの百姓所持の現物を負担するのであれば「更に百姓の費有るべからず」であるが、「得難きの銭を宛て責めらるにおいては」百姓の困窮の基となると述べている(な函一六)。このことから、代銭納が領主側の都合による銭貨納入強制という性格をもっていたことがわかるであろう。これと関連して第二点としては、太良荘においても坪江郷においても代銭納の部分は一部に限られており、年貢米と絹(御服)は現物納であったことを確認する必要があり、太良荘において年貢米の銭納が一般化するのは南北朝期中ごろであった。また坪江郷や河口荘は、室町期においても「絹の荘園」という性格を維持していたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ