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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    四 市場と銭貨流通
      代銭納
 鎌倉後期は望むと望まないとにかかわらず、銭貨が庶民層までをも確実に捉え始めた時期である。むろん鎌倉後期になって初めて庶民が銭貨を用いるようになったわけではなく、遠敷郡太良荘では承久の乱(一二二一)ののちに地頭の若狭忠清が茜藍代銭一貫二〇〇文を徴収しており、また荘民たちにさまざまな言いがかりをつけて科料(罰金)を銅銭で責め取っていた(ほ函八)。荘民たちが銭貨を負担しえたことは注意されなければならないが、茜藍代銭はその他の荘園でも徴収が禁止されていることからすれば、荘民たちがこれを市場向けに生産していたことに対する課税とは考えられず、また科料はいうまでもなく臨時的であり、時沢名主の子が科料二貫文のうち一貫三〇〇文分を馬一疋で支払っているように、すべてが銭貨で納められたのではない。
 鎌倉後期の在地社会において銭貨流通が活発になったことは、年貢・公事を銭で納める代銭納が広がり始めたことから推定される。太良荘の文永六年(一二六九)の領家方年貢目録では畠には段別一〇〇文の分銭が付けられており、地頭がこれを徴収していたものと推定されている(オ函五)。太良荘の年貢は米で近江高島郡木津(滋賀県新旭町)の問丸に運ばれ、大津を経て京都に納入されていたが、嘉元三年(一三〇五)三月には百姓の去年未進分が和市(相場値段)一〇〇文=一・六七斗で換算されて銭二貫八五文が納入されている(は函四〇)。翌四年四月にも去年未進分が一〇〇文=一・四斗の換算で一〇貫八三八文が納入されており、以後も未進分さらには年貢分のごく一部が銭納されている(同前)。その年内に納入される年貢は百姓たちが現米で納めているが、翌年の三・四月に納入される未進分は百姓が銭で納めていることが知られるから(は函三五)、代銭納は代官が現米を銭に換えるのではなく、百姓自らが銭納したものであることがわかる。代銭納が未進分について始まるということは理由のあることであって、年内に現米を納入できなかった百姓は翌年の三・四月にも現米を納入することは困難であるから、別途調達した銭をもって未進を皆済したのであろう。百姓がこの銭貨をどのように調達したのか未詳であるが、何らかの商品生産を行なっていたことが推定されよう。
 建武二年(一三三五)の「坂井郡坪江上郷年貢注文」には、元亨元年(一三二一)に公文が注進した年貢額が記されているが、それによれば御服・御米は現物であるが、さまざまな雑公事(四季天役用途・見下絹代・月別院役・草手銭・煮藍代など)は色々銭二一一貫文余とされて代銭納となっている(「建武応永引付」)。さらに正中二年(一三二五)に遠敷郡名田荘では畠から地子銭が徴収され、上葉(桑)用途は銭納化されている(資2 真珠庵文書一九号)。また名田荘田村の国次名では弘安五年(一二八二)に年貢から上分米・召銭・綿・油・香米・作食・鮎塩代に充てるため一・二四石が差し引かれている(同五号)。正中二年になると国次名をはじめとする名々のこれら「除立物」米は一律に〇・七一五石とされており、減額されていることが知られる(『大徳寺文書』三二五号)。この変化は、南北朝期に上葉銭のうちから塩などの海産物購入を行なっていることをみると(資2 真珠庵文書二九号)、現地では上葉銭から支出して荘園領主に必要な物を買い調えるようになったためと考えられる。



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