目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
     三 女性の御家人・名主
      家を守る後家
 御家人や名主層において家父長の支配する家が形成されていくことと、女性の活動が公的世界から退けられていくことは、表裏の関係にあった。そうしたなかで、夫が死亡した妻で次代の家父長となる嫡子がまだ幼いときには、その嫡子の母である彼女は嫡子の成長のときまで家の代表者として公的な権利を行使しえた。これが後家である。そもそも鎌倉期は子供に所領が譲与されていても、親がその子が「不孝」であると考えれば「悔返」すことができたように、親権が大変に強かった。末武名支配権を主張した鳥羽国茂が母の鳥羽尼に矢を射るという「母子敵対」の「重科」を犯した人物として非難されているのはそのためである(京函一四)。後家は亡夫の親権を代行する存在であった。
 具体的な例を挙げよう。尼了心は亡夫伊賀道教の所領である若狭国衙領別名の武成名地頭職を「後家分」として支配してきたが、正中三年(一三二六)に嫡子の証判を添えて名内の一町を亡夫の成仏と彼女の後生菩提のために遠敷郡神宮寺に寄進している(資9 神宮寺文書五号)。これは御家人の例であるが、百姓においても鎌倉後期の坂井郡三国湊の検注帳に二段の地をもつ蓮浄後家がみえ(「坪江下郷三国湊年貢天役等事」)、同郡河口荘兵庫郷の弘安九年の「作田内検名寄帳」にも吉弘後家分の二段が記されている(「河口荘兵庫郷名寄帳」)。また文永九年(一二七二)の遠敷郡汲部浦の塩木山二四名のうちには弥後家のもつ名がある(秦文書一八号)。
 後家が単に亡夫の遺領を支配しているだけでなく、夫の職務を引き継ぐ場合もあった。年未詳であるが、三方郡山西郷において郷民の買得地安堵に関する領家の命令を現地に伝えている預所源氏女は「春日真性法眼後家」とされているから、夫の預所職を引き継いだものと考えられる(資8 園林寺文書二二号)。また若狭国衙税所領今富名は若狭忠季・嫡子忠時が支配していたが、忠時が所領を没収されたのち寛喜三年(一二三一)得宗が支配するようになると、忠季の後家である若狭尼が代官に任じられている(「税所次第」)。
写真60 預所源氏女奉書(園林寺文書)

写真60 預所源氏女奉書(園林寺文書)

 後家は家の存続のために権限をもったが、最終的には家存続のための論理に服さなければならなかった。正和五年に、坂井郡坪江郷の僧朝賢と祖母の蓮仏後家が石王名内新田四段について争っている(「雑々引付」)。朝賢は、この田地は祖父の蓮仏が死後の「十三年仏事用途」として正安元年(一二九九)に後家に譲ったものであり、一三年ののちは朝賢に返すことになっていると主張し、蓮仏後家は多年知行してきた地を今さら返す必要なしと反論しているが、荘園領主の興福寺大乗院は後家の主張を退けて朝賢にこの地の支配権を認めている。蓮仏の個人霊が一三回忌を一つの区切りとして家を守る先祖霊に同化していくように、蓮仏後家の知行してきたこの田地もその個人的所領としての性格を失い、家を維持していくための家産とならなければならなかった。家の維持のためにはとりわけ女性が多くの犠牲を払わなければならない時代が近づいていたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ