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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
     三 女性の御家人・名主
      縁友としての夫婦
 金石文などでは夫婦は互いを「縁友」と称しており、そこに生活をともにする夫婦間の感情を読み取ることができる。元徳三年(一三三一)に松永荘地頭の惟宗(多伊良)能泰は、二親聖霊の成仏と藤原氏女の息災を願って六段の田地を明通寺に寄進している(資9 明通寺文書一三号)。この藤原氏女が能泰の姉妹や娘であれば惟宗氏女と記されるはずであるから、能泰が健康を祈念したこの女性は彼の妻であったと考えられ、そこに妻に対する愛情の表われを看て取ることが可能であろう。『太平記』巻一一の描写するところによれば、鎌倉幕府滅亡時に平泉寺衆徒の攻撃を受けて幼い二人の子息とともに死を決した大野郡牛原荘地頭の淡河時治は、妻に生き延びて誰とでも再婚してほしいと勧めたが、この妻は子供も夫も失ってはその悲しみに耐えて生きていくことはできず、「同ハ思フ人ト共ニハカナク成テ、埋レン苔ノ下マデモ、同穴ノ契ヲ忘ジ」と述べて子供とともに鎌倉川(茜川、赤根川)に身を投げたという。これは「縁友」としての理想的な姿と当時の人は考えたのであろう。
写真59 赤根川(大野市)

写真59 赤根川(大野市)

 女性が職や所領をもって夫から自立しているこの時期にあっては、離婚も比較的簡単に行なうことができた。中世末の状況を示す『日欧文化比較』において宣教師フロイスは、「日本では、しばしば妻が夫を離別する」と述べているほどである。すでに何度も引き合いに出している末武名主の中原氏女は宝治元年(一二四七)ころには左衛門尉基澄を夫としていたが(ヤ函一二)、弘長元年(一二六一)には脇袋範継を夫としており(リ函六)、さらに死の直前の弘安七年にはこの範継(成仏)とも離別していたと推定される(ア函二八)。女性が「縁友」と死をともにするというのは男の立場からみた理想であったらしい。また、何歳になろうとも「縁友」を求めることが行なわれた。中原氏女の相論相手である宮河乗蓮は越前に嫁取りに通っていたことがあるが、そのとき彼の年齢は六七歳くらいであった(ア函二三)。乗蓮の熱意の背景に何があるのか未詳であるが、お互いに自立しうる基盤をもっている場合には「縁友」と離別・死別すれば、男も女も生活の充実をめざして新たな「縁友」を求めたものと思われる。



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